自粛生活もそろそろ出口が見えてきた。
アフターコロナという言葉も広がってきた。
だけど完全収束ではないのは明らかであり、アフターなどとは言えるはずもない。
今回のことで知った事。
人と会って話して乾杯してという時間は、いつの時代にもあるわけではないという事。
アンネフランクは一歩も外に出ることなく足音すら立てられずに、隠れ家で2年間過ごした。
そしてある日、踏み込んできたナチス親衛隊によって強制収容所に移送された。
彼女と比べればなどという気は毛頭ない。当たり前だ。
自分の気持ちのままに外に出て食べたいものを食べ、見たいものを見る。
こんな時間がどれほど貴重か、陳腐な表現ではあるが改めて知った。
一方、「自粛生活は平和だった」と言う方々も複数いるのは確か。
今日もそのご家族からメールが来た。
「外出してはいけない期間」は、イコール「外出しなくても良い期間」でもある。
心身に障害を負った方の多くは、普段から外出をすることが難しい。
外出をするための準備で気持ちが折れ、いざ外出しても人の多さにたじろぐ。
バリアフリーは整備されてはきたが、そこに行きつくまでの行程の長さに疲れてしまう。
私自身、年頭に脚を痛め車イスと杖歩行の時期だった。
電話で済ませられないだろうかとの思いを抱えながら、
カタツムリのようなスピードで街を歩き続けた。
そんな私にとって「外に出てはいけない期間」は悪い事ばかりではなかった。
自分一人が動けないのではなく、社会全体が動けないという事実。
そのことに安堵する本音もあった。
これは障害者の方、特にひきこもりに近い方やそのご家族にとっても同じだった。
「息子は『不要不急』の意味を延々とネット検索して、安堵しています」
「受診しないと薬は出せないと言っていた医者が、℡だけで出してくれた」
「部屋の中でもマスクをしたままの自分は
いつもいつも周りから奇異な目で見られてきた。でも、今は誰も何も言わない」
他人と違うこと、フツウは○○だよねという○○ができない事。
そう言う違いを少しだけ「そんなこともあるかもね」といえる空気が生まれたような。
今回のウィルスはしばらく残るだろうし、新たなウィルスが現れてもちっとも不思議ではない。
経済的な打撃は計り知れないが、少しでもプラスのことを見つけようとするならば
フツウという言葉の解釈に幅が出たことではないだろうか。
終わったのではなく、終わりにするのではなく
いつなんどき奴らが現れてもフツウを守り抜ける毎日を営む。
いや、違うな。
自分にとっての「フツウ」とは違う人々を見ても、それもありかと思う事。
そもそも「フツウ」とはいったいどういうことなのか。
そこから考え直していく必要があるのかもしれない。
そういうことを意識化していれば、
見たこともないウィルスがある日突然現れても、慌てふためくことも少なくなるかもしれない。