【神奈川】横浜市立中学校社会科副読本「横浜の歴史」(横浜市教育委員会編)のなかの関東大震災同胞虐殺に関する記述が一部改訂され、虐殺実行者とされてきた軍隊が、「朝鮮人」を助けるために出動したと読み取れる内容に書き改められていたことがこのほど、わかった。これについては複数の日本人研究者が、「この記述は適切とは言えない」と指摘している。

中学生用副読本 軍隊、警察の責任ぼかす

 「横浜の歴史(中学生用)」は71年に初版を発行。以降、毎年改訂されている。関東大震災同胞虐殺に関する記述を見ていくと、02年版と09年版でその変化が著しいことがわかる。

 90年版では軍隊や警察、自警団を虐殺主体として明確に位置づけていたが、02年版では、政府が戒厳令を神奈川県に拡大し、軍隊を横浜に出動させた理由を、「朝鮮人を殺害する行為に走るものがいたから」と変えた。09年版では軍隊ばかりか警察そのものも虐殺主体から消えた。

 横浜の関東大震災同胞虐殺についてフィールドワークを重ねながら研究している市立中学校の元教員後藤周さんは、「これでは自警団による朝鮮人殺害が横浜で激しく行われているので、それを止めるために戒厳令が神奈川県に拡大され、軍隊が出動したということになる。行政当局や警察や軍隊などの治安責任者が、当初はデマを信じて出動したこと、デマの伝播や虐殺の黙認、あるいは実行に深く関わったことが問題なのに」と、疑問を呈している。

 一方、専修大学教員でこの問題に詳しい田中正敬さんによれば、「横浜で軍隊が虐殺にかかわったという証言がないわけではないが、東京や千葉で見つかったような公文書や物証(遺骨)といった強力な補強材料はまだ出てこない」のだという。

 それでも、市内の1カ所だけで500人が殺害されたことを示す当時の調査データを示し、「500人を殺したとすれば、自警団だけではとても無理。軍隊が関わったのではと、容易に推測できる。少なくとも軍隊が朝鮮人を助けるために出動したという記述は適切さを欠く」と指摘している。

 このほか、少年時代に虐殺現場を目撃した石橋大司さんが「一市民」として、謝罪の気持ちを表すために74年に久保山の震災無縁仏のそばに建立した「関東大震災殉難朝鮮人慰霊碑」に関する記述についても、02年版では軍隊が虐殺に関わったことが消され、09年版では写真と記述そのものがすべて削除された。

 横浜市教委では執筆担当者の話として、「軍隊が横浜で朝鮮人に対して殺害したことを否定するという、そういう意図ではない。確実に軍が虐殺したという証拠が見当たらないためだ」としている。また、関東大震災殉難朝鮮人慰霊碑の記述を削除したことについては、「限られたスペース上の問題で、簡略化したため」と釈明している。

90年「基本方針」から逆行

 「横浜の歴史」は90年に大幅に増補改訂されるまでは、「市民は自警団をつくり、自らの身を守るために努力したが、デマなどによって罪のない朝鮮の人々が殺されるという不幸なできごともおこった」(74年改訂版)と、同胞虐殺の原因をぼかし、自らの加害責任を隠蔽する記述に終始していた。

 このため、後藤周さんも加わる横浜の民族差別と闘う会が、市教委学校教育部の人権教育担当部と数年間も話し合いを重ね、「歴史の反省を示し、直視すべき歴史事実として朝鮮人虐殺を記述する」よう求めてきた。

 この結果、市教委は、①震災時の軍隊や警察、自警団による朝鮮人虐殺の事実や背景について一切触れていない②当時のデマがあたかも事実であったかのような印象を与える恐れがある③このことはわが国に根強く存在する韓国・朝鮮人に対する偏見や、ひいては差別意識を再生産することにつながる‐として改訂した経緯がある。

 この改訂は市教委が当時、人権教育体制の確立を急いでいたこととも重なるようだ。91年6月に制定した「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の基本方針」を見ると、「歴史の反省」が柱のひとつに掲げられており、「歴史への反省を示すには、朝鮮人虐殺の事実を直視することが重要である」とうたっている。

(2011.10.19 民団新聞)