『手にした方が、いいのでしょうが…。』
と思っていながら、手にできないものがあります。そのタイミングで、違和感と共に手にすると、人生はそれを調整しようとして様々な事が起こり、非常に多くの感情が溢れてきます。帳尻を合わせようとするのですね。その時は非常に短期的視野となり、感情的で自分や人を傷つけることもしばしばです。
しかしその感情を人にぶつけずに、自分の中に与える事ができれば、人は成長していくのだと思います。
私は近頃、"成長"とは"醗酵"ではないかという仮説をもって生活しています。その視点から考えてみたいのですが…。
イライラ感情を内側に与えると、それは熱を持ちピリピリとした感じがこの体や心を支配します。しかし、24時間そのままの人間はいませんので、外に放出せず内側に留める事でそのピリピリ感(イライラ)はおさまります。その時、醗酵し始めたと思ってほしいのです。("我慢"だと思うと辛いですね…。)
糠床にも似たようなピリピリ作用をもたらすものとして、鷹の爪を入れます。それは辛みとして風味となり、また腐敗を予防する大切な要素となります。
同じように、「悲しみは塩っぱ味」。「苦しみは酸っぱ味」。「ワクワクは旨味」。そんなふうにいろんな要素(感情)を私の中に与える行為は、糠床を育てる行為と全く同じなのだと思ったのです。だから、たくさんの感情が日々現れますでしょうが、それを外に放出せずに、内側に与えてあげてください。もったいないですから。
そうすれば、自分の感情を、誰かにぶつける必要性なんてなくなって、愚痴や何かに当たり散らす代りに、醗酵したあとに出てくる豊かな言葉や行いで、周りの人にその豊かさを伝染させていける、つまり与えていける人になるのではないかと思います。
そして少しづつ、物事におけるタイミングというものを知る事ができます。自分の気持ちいいタイミング。人に言われたのとは違う。自分で選んでいるという幸福感。
「手に入れた方が良い」と思う事と、「手にしたい」と思う事は似ているけれど違います。自分の中に【必要性】が育ってくるのを感じるのです。良いに決まっていても、自分の中で必要性が育めていない時は、素直にそれを手に取ることはできないはずです。
それは、自分のタイミングを知る事と同じです。植物や醗酵が育っていくような、ベストなタイミング、ベストな過程、ベストな順序が人間にもあるのだと思います。それが成長であって、その過程はまさに"醗酵"なんだと思い至った訳です。今は私も練習中です。
自分の中で、感情を醗酵させた分だけ、相手の中の同じ物に理解を示す事ができます。怒っている人を見て、つられて怒ってしまうのはまだ自分にそれが醗酵できていない事の証拠になります。もし、醗酵済みであれば怒っている人の中にあるものが見えてくるかもしれません。
実は、1つの感情の中にはいろんなものが見え隠れしています。
理解しようと、想像する事でその人への関心が生まれ、それはその人への愛へと移り変わります。こらもまさに"醗酵"ですね。関係を育むのです。マザー・テレサは『愛の反対は憎しみではなく無関心』だと言いました。尊敬している山崎拓巳さんは『ならば無関心の反対の関心を寄せる事は、愛の具現なのだ』と語っています。
理解しようとする事。相手の内側を想像する事。それは相手に関心を寄せているという他ならぬ証でしょう。それは、相手との関係を育んでいこうとする心。その過程で自分の愛を育んでいこうとするものなのでしょう。"育み"とはまさしく"醗酵"の事だと思わずにはいられないのです。
今日も、良い1日を育んでまいりましょう。