以前、歌舞伎俳優名のアクセントについて書きました

このとき「メモとして」としました。

2020年の日記ですが、この5年でAIアナウンサーのアクセントで違和感のあるものが出てきたり、8代目菊五郎の襲名で、「キク\ゴロー」のアクセントになってしまっているアナウンスを聞いたりすることが多くなっています。

 

同じようなテーマの論文があったので、貼っておきます。

 

立教大学学術リポジトリ

 

今の歌舞伎俳優全員のアクセントがつけられているので、AIに学ばせれば、AIアナウンサーの奇妙なアクセントも直っていくのではないかと思います。

 

 歌舞伎俳優名の漢字字体については、このブログでも何回か書いています。

 今回は「片岡」の「片」の字についてまとめます。

 この漢字については、いくつかの異体字があります。「異体字」は漢字の意味は変わらないけれども、形が少し異なる漢字やかなのことを言います。

 「片」の異体字は、いろいろありますが、ひとつは、4画目が、Tのようになるもの、もうひとつは、Tの真ん中の線が下で曲がるもの、そして、4画目が丁になるものなどです。明治時代以降の印刷されたもので見ると、歌舞伎俳優の名前に使われる「片岡」はこの常用漢字表にあるふつうの字体のほかに、上記の3つの異体字のものがありました。雑誌『歌舞伎』や歌舞伎座の筋書きはふつうの「片」でしたが、そのほかはいろいろです。『粋客必携粋人の宝』(1889・名倉亀楠著)にある歌舞伎俳優の「片岡姓」には上記の字体すべてが出てきます。師匠と弟子の関係でも違う字体で示されているので、あまり統一的なものではないように思います。

 さて、歌舞伎俳優の名前の姓に当たる「片岡」の字体について、11月に2回連続で異体字がニュースで使われました。

 ひとつは、文化勲章を受章した片岡仁左衛門の本名「片岡孝夫」には、文部科学省の発表で、「片は4画目が突き出る」と説明されていました(つまり、4画目がTになっている字体)。

 もうひとつは、先日亡くなった、片岡亀蔵の本名「片岡二郎」の字体です。これをNHKの放送では「Tになっている字体」で示していました。

 どちらも本人の名乗りに合わせて異体字を使用しているということのようです。一方で、芸名の「片岡」は普通の字体です。当代の仁左衛門の父親、13代目仁左衛門の著書では、片岡家の墓の写真が出てきますが、確かに。墓標や記念碑では「Tになっている片」を使っていました(Tだけではなく上の棒も点になっているような手書き字体です)。

 松竹からの発表などでは本名も含めてふつうの「片」でしたし、新聞社・通信社も同様でした。ネットでは異体字が出しにくいということと、紙面では作字をすればできそうですが、異体字は本字と意味が異なるわけではないため、本字で示すのを原則にしているのだと思います。

 NHKもネット配信ではふつうの字体です。

 繰り返しますが、異体字の場合、本来の字と意味は異なりません。芸名と同じ姓の場合、字体で区別するという意識だと思いますが、それを理解できる人がどれぐらいいるでしょう。手書き字体を再現しても意味はないように思います。

 これまで「片」の字の字体について意識をしたことがありませんでした。歌舞伎俳優の本名を紹介する場面は少ないということと、「片岡孝夫」の場合は、本名が芸名になっていた時期もあり、芸名のときにはふつうの「片」を使っていたであろうからです。

 まだ調べている途中です。

 異体字の片の字を使うことにどれぐらいの理屈が成り立つのか、もう少し調べたいと思います。

 相撲の人気が復活しています。

 ここのところチケットをとるのに苦労しています。

 さて、今回は、問題提起として相撲で使われることばのうち「ざんばら髪」ということばについて考えようと思います。

 相撲では、力士になって間もない力士で、マゲを結えない場合、びんつけ油でオールバックにして相撲をとらせます。こういう髪形を「ざんばら髪」と表現しています。例えば、今の横綱・大の里の新入幕のときの新聞に「ざんばら髪の新入幕・大の里」という見出しが見えます(2023年12月25日・中日スポーツの記事)。

 少し古い例では『力士100年の診断書 : 力士のカルテからさぐった健康長寿の秘訣を明かす』(林盈六 著・ベースボール・マガジン社・1984、p.11)に次のような例があります。

  土俵の片隅には入門したてのマゲも結えないザンバラ髪の新弟子が塩の入った笊を持って立っている。

 しかし、「ざんばら髪」ということばの意味を考えると、髪をマゲに結えないような状態を指すのに使うのはおかしいのではないかとも感じられます。

 『大辞林』には「さんばらかみ」という見出しに「ざんばらがみ、とも」と注記が付けられ、意味は「ふり乱れた髪」となっています。「さんばら」には「結っている髪がくずれてふり乱れていること」の意味が付けられています。

 小型辞書では「ざんばらがみ」を見出しにしているものがほとんどのようです。意味は、『三省堂国語辞典』は「(結ってあったものがくずれて)ばらばらに乱れた髪の毛」とあります。『新選国語辞典』は「長く振り乱した髪」です。

 相撲のマゲを結えないような状態のことを指すのに「振り乱した髪」というのはあてはまりません。そもそも、マゲが結えない力士は前にも述べたようにびんつけ油を紙につけてなでつけて乱れないようにしています。

 もうひとつマゲを結わない状態の髪型のことを言うことばがあります。「散切り」です。このことばは現代のことばではあまり使われませんが、歌舞伎では「散切り物」などという分類があります。歌舞伎狂言で、明治の新時代に入ったとき、その散切頭の時代風俗を取り扱った芝居のことを言うことばです。

例えば、「明治以来、歌舞伎芝居でもザンギリ物、即ち現代劇を上演しないではなかったが(略)」(「綺堂一夕話」『風俗江戸東京物語』2001・河出書房新書・岡本綺堂、p. 341。初出は『新潮』昭和9年1月号)などの使い方が見えます。

『大辞林』では3つの意味が示されています。「明治初期、散髪脱刀令以降流行した男の髪形」の意味のほか、「剃ったり結んだりしないで、後ろになでつけただけの髪。なでつけ髪」という意味もあります。国文学者・民俗学者の池田弥三郎の指摘として次のようなものがあります。

日本人の髪形は、「総髪」と「半髪」とだったが、それにさらに、ジャンギリと鈍って言われた「散切」が加わった。もとは、散切は総髪の中にはいっていたが、文明開化の散切は、総髪は総髪でも、短く切り落して、洋風になでつけた髪型だ。黙阿弥などの戯曲の中に「散切物」の名を遺したほど、明治の、文明開化の新風俗であった。(『東京の中の江戸』「文明開化の東京」池田弥三郎・1979・弥生叢書、p.29)。

 「散切り」と言うと、明治時代にマゲ頭のマゲを切った状態のことを指すため、相撲で結えない状態とは逆ではないかと思うかもしれませんが、髪の毛をなでつけて総髪(オールバック)にした状態のことも「散切り」と言ったということです。

 資料として明記したものではありませんが、NHKの相撲中継で解説の北の富士氏が「自分の若いころは散切り頭と言った」というようなことを言っていたのを聞きました。もう少し古いものも調べてみて、相撲で「散切り」を使った例を探さないといけませんが、相撲でマゲを結えない状態を「ざんばら」と言ったのは、それほど古いものではないのかもしれません。

 「散切り」ということばが、一般語ではなくなり伝わりにくくなり、乱れ髪のことを言う「ざんばら」が使われるようになったということでしょう。なぜ「乱れ髪」という意味のことばが使われたのかですが、相撲をとれば髪の毛は乱れます。マゲを結っている力士よりも、結えていない力士のほうが髪の毛を振り乱す感じが強くなります。また、結っている状態がふつうであると考えれば、それが解けてしまった髪型ということで「ざんばら」に結び付いたのでしょうか。

 

驚きました。

片岡亀蔵が亡くなったというニュースを見ました。

火災により亡くなったという情報でした。

本当なのでしょうか。信じられません。

亀蔵は、現代の歌舞伎で貴重な脇役俳優です。

お兄さんの当代の片岡市蔵よりも先代の市蔵の雰囲気を感じさせる人で、うまいというのではなく、特定の役(籠釣瓶の田舎侍や寺子屋の春藤など)を演じるとふさわしい雰囲気で演じてくれる俳優です。

演技や芸のうまい俳優は、今は多くいますが、無器用だけれども歌舞伎の色を持った俳優は非常に貴重です。

こういった雰囲気というのは勉強では身に付けられないものだからです。

中村屋一門のお芝居でよく出ていたでしょうか。

私が見に行く演目にはあまり出ていませんでしたが、直近では、「忠臣蔵・7段目」の斧九太夫を見ました。

このニュースのショックは、貴重な俳優の死であるということもさることながら、この俳優の父親・先代片岡市蔵も、事故で亡くなっていたからでもあります。

先代片岡市蔵は5代目。

この名前は代々、カタイチという愛称で呼ばれます。

5代目もカタイチと呼ばれていました。うまくはないのですが籠釣瓶の田舎侍などはこの人以外には演じられないものでした。

5代目市蔵は、千代田線の湯島駅のホームから転落して亡くなりました。1991年のことです。

このときのニュースにもショックを受けたことを覚えています。

その市蔵の次男が、火災で亡くなったというのが本当であれば、驚きだけではないショックです。

 

まだ確定はしていないのかもしれませんが、本当であるならば、冥福をお祈りいたします。

 歌舞伎では、江戸時代からの伝統で、年に1回「顔見世興行」をします。歌舞伎のお正月のようなもので、京都は南座で12月です。そのほか、名古屋では10月に行われます。

 今月は東京の顔見世の月です。歌舞伎座で行われます。

 今年の顔見世は、昼の部が盛りだくさんで、夜の部は顔見世の恒例・曽我物の踊りと三谷幸喜の新作歌舞伎です。

 私は、三谷歌舞伎のほうを見に行ってきました。

 三谷歌舞伎はこれまでに3作あり、いずれも見に行っています。特に好きな劇作家ということではありませんが、歌舞伎の小劇団系の人が作る新作は原則として見に行くようにしているからです。

 それは、野田秀樹の歌舞伎「研辰の討たれ」がすばらしいと思って以降、そういう出会いがあるのかもしれないと思うからです。こういう新作を見ると、歌舞伎俳優の演技の引き出しの多さに関心します。そうした演技がどんな作品でもおもしろくさせてしまいます。歌舞伎の層のあつさを感じさせます。「研辰の討たれ」を見たときの驚きは、義太夫をしっかりとつけていたことでした。どうしてもこうした新作の場合はどたばたが多くなるなかで、じっくりと芝居を見せる部分があるというのがさすがだと感じさせました。歌舞伎の「アイーダ」も同様でした。

 さて、三谷かぶきは、「どたばた」ばかりの芝居です。なぜ「歌舞伎」でそれを見せるのかがわかりません。「おもしろい」けれどもあとに残らないのです。歌舞伎の新作の悪ノリの典型例だと思います。今回はまさにそれでした。

 歌舞伎ではない三谷幸喜の「ショーマストゴーオン」は、シチュエーションコメディーとしておもしろいのだと思います。ただ、歌舞伎にして新しかったかどうかです。

 その中でも、おもしろいなと思ったのは、劇中で弥十郎に語らせた「芸」についてのことばの部分です。自分でできた、おもしろいと思えたのはほんの一瞬だったといった部分です。

 今回の芝居で不満は、主役の幸四郎と獅童がまじめにやっていない部分があるということでしょうか。おもしろく見せようとしているのがこの芝居のおもしろさをそいでしまっています。

 高麗蔵や宗之助などの脇の人たちに関心しました。

 また、珍しいことですが、せりふをがなるのでわかりにくいのです。肝心の「なぜ黒衣がいないのか」という部分のセリフがわかりにくく聞こえませんでした。

 今は映画「国宝」で歌舞伎ブームでどんな歌舞伎も満席になるようです。でも、顔見世の芝居でこれというのはどうだったのでしょうか。

 

 さて、今回のプログラム(筋書き)に「ネタバレを含みますので、御観劇後にお読みいただくことをお勧めします」と書かれていました。

 歌舞伎のプログラムはあらすじをかならず載せます。芝居も何回も同じものを上演するので、ネタバレかどうかは実は関係ありません。しかし、新作の場合は、気になるということでしょうか。それとも新しいファン層のためでしょうか。

 「ネタバレ」という、俗語をプログラムにそのまま説明文にのせるというのも不思議です。「本作の内容がすべて書かれています。ご覧になってからお読みになることをおすすめします」あるいは、「内容を事前にお知りになりたくない方はご覧になってからお読みください」というのがこれまでよくある書き方のように思います。

 

 もう1点、三谷かぶきで、ことばとしておもしろいと思ったのは、三谷幸喜の原作では「幕を降ろすな」なのに、歌舞伎では「幕を閉じるな」にしているという点です。

セリフでは「幕を引くな」でした。

 歌舞伎での幕に結び付く動詞と、一般の演劇の幕の動詞とが違うのは、それぞれの幕の形式が異なるからです。

 「幕を閉じるな」だと、歌舞伎以外にも使えそうですが、歌舞伎らしさでいえば「幕を引くな」でもよかったのかもしれません。ただ、これを選ばなかったのは「幕を引く」というのが専門的すぎるからでしょう。

 こういう発見があるので、芝居はちゃんと見に行かなくちゃいけないと思いました。