ブログに遊びに来てくださりありがとうございます。優です。

 

 

「あなたのためを思ってやってあげたのよ!感謝しなさい!!」

 

 

前回のブログでは母がかつて僕に言った

 

 

「あなたのために学費を払ってあげてるのよ」の言葉がギシギシと

僕の胸にリフレインしていたことを書いた。

 

 

そんなことを言われても心はどんどん閉ざされるし、

感謝の気持ちも湧いてこない。

 

 

今日はもうちょっとスッキリしたいので、この現象の意味を探ってみた。

なぜなら今でも時々同じようなことが起きているからだ。

 

 

探ってみるとこんな答えだった。

「相手のためを思ってやってあげたい!!」というのは

僕自身の中にあるものとのこと。

 

 

その相手というのは誰でもいいわけではなく、

「困っている人に手を差し伸べたい」という想いが根底にあるみたい。

 

 

もともとは「無償の愛」から来ていて、誰もが「無償の愛」で生きる世界が

僕の魂の記憶にあって、でもこの地球ではすべての人が「無償の愛」で生きてはいない。

 

 

つまり「無償の愛」で生きている人はむしろ少ないこの世界に

絶望していて、深い悲しみを感じているみたい。

 

 

例えば仕事は「困っている人のために手を差し伸べる」という行為とも言えるけれど、

その代わりお金をもらうという仕組みができている。

 

 

本来は「無償の愛」で生きるのがナチュラルなのに、「お金」をもらうという

仕組みの中でそれをやらなければならず、そうなると「無償の愛」の美しさは消える。

 

 

「無償の愛」の美しさを知っているからこそ、その美しさが消えることに

深い悲しみを感じているのかもしれない。

 

 

お金をもらっても「愛を与え合う」ことには変わらないのに。

もともとお金に換算できない愛を例えば「じゃあ1000円ね」

みたいに換算される(しなくてはならない)ことが悲しいんだろうと思う。

 

 

お金が欲しくてやってるわけではないのに

結局お金欲しさにやってるように見える

 

 

「無償の愛」の世界の美しさはお互いが「無償の愛」を与え合うことだけど、

「お金(経済」で成り立つこの世界でそれをやることは難しいから

 

 

「無償の愛」がお金に置き換わったと思えばいいのかもしれない。

 

 

なので、言葉は矛盾するけれどかつての母は、

「あなたのために学費(=無償の愛)を払ってあげてるのよ」

と言いたかったのかもしれない。

 

 

「あなたに無償の愛を学費に変えて払っているのよ」

ということかもしれない。

 

 

「お金(経済)」で成り立つこの世界に

なんとか「無償の愛」をあてはめた表現かなと思う。

 

 

いつか愛をお金に変えなくても成り立つ世界になったらいいな。

その方がシンプル!!

 

 

話しが逸れたけれど、

「無償の愛」の美しさを知っている人が「お金で成り立つこの世界」に

絶望し、それでもなんとか生き延びていくために「愛をお金に変換させる」技を

かろうじて身につけて生きている。

 

 

でも、それによって「無償の愛」の美しさが消えていくことに悲しさや寂しさを

感じているのかもしれない。

 

 

「お金で成り立つ世界の美しさ」もまたあるのだろうと思うけれど。