「妙な言い方だが、山には、登る山と遊ぶ山がある。前者は、息を切らし汗を流し、ようやくその頂上に辿り着いて快哉を叫ぶという風であり、後者は歌でもうたいながら気ままに歩く。もちろん山だから登りはあるが、ただ一つの目標に固執しない。気持ちのいい場所があれば寝転んで雲を眺め、わざと脇道に入って迷ったりもする。当然それは豊かな地の起伏と広濶な展望を持った高原状の山であらねばならない。霧ヶ峰はその代表的なものの一つである。」



先日、蓼科高原に滞在した時に朝活登山で訪れた霧ヶ峰に対する深田久弥の記述である。




たしかに普通の山とは全く違う様相であった。一応、車山や蝶々深山というピークは踏んだものの、普通の登山におけるピークハントの感覚とは全く異なるのである。



5月に赤岳のピークを踏んだ時は、初めて八ヶ岳主峰のピークに立った喜びと達成感が込み上げてきたものだ。



しかし、車山のピークに立つことは、あくまでも霧ヶ峰を訪れた際に得られる要素の中の一つであり、全体の中でピークハントという要素が大した地位を占めていないのである。



登るのが楽だからということもあるかもしれないが、むしろピーク以外の価値が極めて大きい、そしてその要素が必ずしもピークと結びついていないということだろう。


(赤岳 地蔵尾根コース途中の岩場)


普通は、険しい岩場など色んな要素が途中にあって、それらはピークへと繋がる通過点であり、越えるべき壁の一つとして位置付けられているから、広く捉えればピークハントの一要素となっている。



しかし、霧ヶ峰の場合は、ピークハントとは全く切り離された状態での山歩きがそこにあるわけだ。その辺が、深田久弥に「遊ぶ山」という表現を使わせたのかもしれない。



僕は氏ほど自由気ままに草原を歩き回ったわけではないが、途中から草をかき分けて進むような道も歩いた。しかし、この高原なら迷っても大丈夫かなという安心感があった。深田久弥も「もっとも迷ったところで大したことはない。」としている。同感だ。



わざわざ東京から日帰りで車山のピークを目指したいという気持ちにはならないが、今回の家族旅行のように八ヶ岳エリアを訪れている時に、ついでと言っては失礼だが、ちょっと立ち寄る山としては、極めて満足度の高い山である。また来年も高原歩きを楽しむことができれば幸せだ。