玄洋社 | 論説 [ ● ]おおす新聞

論説 [ ● ]おおす新聞

皇御國、第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)、藤田東湖「和文天祥正氣歌」天地正大氣 粹然鍾 神州。吉田松陰「士規七則」士道莫大於義 義因勇行 勇因義長。日本國領土 尖閣諸島徹底護持、七生報國

玄洋社(福岡県福岡市中央区)1881年 - 1946年 大東亜聖戦終戦の後、昭和21年、GHQにより解散させられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E6%B4%8B%E7%A4%BE
玄洋社の思想に共鳴した柴田徳次郎福岡県出身 國士舘創立者)によって、関東一円の学生によって設立されたのが青年大民團である。青年大民團玄洋社の思想を多くの青年へ教育するための教育機関として私塾國士舘を設立しており、こうした関係から大東亜聖戦直後は國士舘はその名称をGHQにより変更(至徳学園)させられていた時期もあった。(転載、一部編集)


玄洋社 憲則三章
一、皇室を敬戴すべし
一、本国を愛重すべし
一、人民の権利を固守すべし




玄洋社 頭山満翁(福岡県福岡市出身)安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年) 10月5日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80



敬神 頭山満
私が生まれ育った地の氏神様の本殿を某有志が掃除をしていると「敬神 頭山満」と書かれた額が出てきたと聞いたのは10年ほど前だったでしょうか。

誰がいつ置いたのか、何故本殿にあったのかは分からないとのことでした。

某有志の推測によると同地の大日本帝國陸軍の階級が上のA氏の関係からだろうか(あるいは、私の祖父の弟の大日本帝國陸軍軍人の関係とも推測)との見解を述べておりました。

私は物心付かないうちから古墳にあるこの氏神様を参拝させて頂いていおりました。近くには 天武天皇の頓宮があったとされる地があります(当該地:頓ノ皇谷(トンノコ谷) ⇒http://amba.to/TAj5Gc )。

「敬神 頭山満」の写真を玄洋社記念館に送付して見て頂きますと、頭山満翁本人の揮毫(きごう)である思うとの趣旨の御返事を頂きました。

(追記)
同地の大日本帝國軍人で、支那事変に於いて、我が国日本で初の戦死者ではないのだろうかと目される同地出身の御英霊がおられ、同地に於いては初めての戦死者であるとのことを同地出身在住の某氏から伺いました。

御英霊は某氏の父の兄で、某氏の父が小学生になる頃、支那事変で支那で戦闘機を操縦中に被弾し線路に墜落して戦死されたとのことです。

葬儀は同地の駅から、寺までの道に(距離約600m)に花が並び、総理大臣が参列したとのことを某氏が某氏父から聞いたとのことで、某氏の父は小さい頃にこれを見て、国葬の様で凄かったと記憶しているとのことです。

支那事変が昭和12年からなので、当時の総理は近衛文麿内閣総理大臣ではないかと推測でき、同内閣の外相が広田弘毅外務大臣(昭和23年12月23日午前0時21分、対日報復裁判・極東国際軍事裁判の判決により巣鴨プリズン内で絞首刑、鎮魂。墓碑:殉國七士廟(愛知県西尾市東幡豆町大境))で、同外務大臣は玄洋社社員であることから、同外務大臣から頭山満翁の「敬神」の揮毫が同地にもたらされたとも推測できるところでしょうか。
(追記ここまで)




玄洋社 来島恒喜烈士(福岡県福岡市出身)1860年1月31日(安政6年12月30日) - 1889年(明治22年)10 月18日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E6%81%92%E5%96%9C
大隈重信の条約改正案に反対、玄洋社を退社。大隈を暗殺するべく、1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車ごと爆弾を投げつけ、右足切断の重傷を負わせた。来島は爆弾が炸裂の後、皇居遥拝の後、短刀で喉を突き斬り自決した。享年31。この事件によって大隈の条約改正案は破棄された。(転載、一部編集)


頭山満翁、来島恒喜烈士の葬儀での弔辞

天下の諤々(がくがく)は君が一撃に如(し)かず


西日本シティ銀行(ふるさと歴史シリーズ「博多に強くなろう」)
頭山満 偉大なる足跡 -頭山満翁の生涯-
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/061/01.html
国民投票で日本一
頭山満翁の一生は実に波乱万丈で、また先生その人がユーモアを解される方で翁の話は非常に面白い筈でありますが、私が話をするとそうした先生の面白さをお伝えできるかどうか、心配いたしておるのでございます。
いったい頭山翁のどこが偉かったのかと云う事になりますとなかなか言葉で説明しにくいのでありますが、明治時代にある雑誌社で現代日本一の人物の国民投票がありましたが、その中の日本一の豪傑で頭山先生が第1位。政治家は大隈重信、学者は三宅雪嶺、実業家は渋沢栄一、力士は常陸山(ひたちやま)という方々でありますが、当時、国民から豪傑の第一は頭山満と信じられていたと思うのであります。
そういう人気はとろうとしてとれるものではない。やはり頭山翁がいよいよの場合、国民のために命を抛(なげう)つ人であるという信頼から、一浪人ながら世の中に重きをなして、こうした人気があったのだろうと感じております。


来島恒喜の一撃
来島恒喜さんは人参畑の高場塾の塾生で頭山先生よりも5つくらい下でしょうか。井上の条約案は、世論の攻撃で阻止できたが大隈の条約案はとうてい言論では駄目だと見てとっておりまして、心に決するところがあったようです。
大隈さんの条約改正がいよいよぎりぎりのところにきた明治22年10月18日のこと。午後4時5分過ぎでございますが、大隈さんが閣議を終えて馬車が桜田門の方から外務省の門に入るところを、門の前に待ち受けて爆弾を投げたのであります。
白煙濛濛として、あたりがわからなかった。来島さんはうまくいったというので門外に歩いてくる。余り落ち着いているので、駆け付けた警部は犯人は何方へ逃げましたかと聞く。犯人はあちらの方へ逃げましたと虎の門の方を指したとか。その来島さんの行動を反対側の土手から月成光さんが見ておった。
来島さんは皇居の方を拝み、成功したと云う合図の手をあげて、そして筑前左文字の短刀でその場で自害されたのであります。
谷干城さんの当時の日記には「世論は即ち天意なり。天意豈(あに)恐れざるべけんや」と書いてありますが、来島さんのこの一撃によって大隈条約改正案は実現できなかったのであります。
来島さんの葬儀はひっそりとされましたけれども、5千人からの会葬者で、自宅から崇福寺まで人の山を築いたということであります。頭山先生の弔辞は「天下の諤々(がくがく)は君が一撃に如(し)かず」という短いもので、まことに寸鉄人を刺す強い響きを感ずるのであります。(転載)


来島恒喜烈士
風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還
風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず 
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Bass/4619/keikasyou.html





皇紀2586年・大正15年・1926年 國士館維持委員会の支援
維持委員会には、國士館の教育に賛同する各界の名士が参集し、財団運営への支援が図られた。
(前列左より、頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富蘇峰、後列左より、花田半助、渡辺海旭、柴田徳次郎)





國士舘創立者 柴田徳次郎総長先生


大和男の児(やまとおのこ)の

     真心問へば

    抜けば玉散る
 
       日本刀



國士舘大学
http://hirihoukenten11111.blog.fc2.com/blog-entry-2242.html


「抜刀隊」 日本刀 桜花
http://amba.to/XWpzR9


國士舘・柴田徳次郎総長先生
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%BE%B3%E6%AC%A1%E9%83%8E8E
福岡県那珂郡別所村(現:筑紫郡那珂川町別所)出身
16歳で上京し、正則英語学校・芝中学校を経て1915年に早稲田大学専門部政経科を卒業
在学中に頭山満・緒方竹虎・中野正剛の知遇を得、翌年青年大民團を組織
1917年11月4日大民團の私塾として國士舘を創設する
戦後、公職追放を受けるも解除の後1958年に國士舘大学を創設し学長に就任(転載)







國士舘大学 建学主旨


國士舘大学 柴田徳次郎総長先生 入学式


國士舘大学 柴田徳次郎総長先生 天長節式典 聖寿萬歳


國士舘大学卒業式(昭和40年頃)


國士舘舘歌



大須観音・仁王門前(名古屋市中区大須2-21-47)  國士舘旗



玄洋社跡碑
福岡県福岡市中央区舞鶴2-3-1(ドコモ舞鶴ビル敷地内)







第96代 後醍醐天皇 縁の大須(名古屋市)


大須は尊皇の街 萬世一系乃皇統護持

古事記1300年 大須観音展



人気ブログランキングへ