重要事項書き抜き戦国史(172) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(338)

重要事項書き抜き戦国史《172》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《62》

信長はどのようにしてつくられたのか(その三十八)

 

 織田久長が接近した本多正定は、のちに徳川家康の懐刀となって水魚の交わりをした本多佐渡守正信の祖父にあたる人物です。正定が久長につづけて語ったのが石川政康の治世のやり方の一端でした。

「何年か前にどうしたことか不作や凶作が続いたことがありましたが、そのとき政康様は小川城の貯蔵米を自分たちだけでなく近隣の村人のためにも、少しずつですが、自分たちも含めて均等に分配して、苦しい時期を乗り切りました」

「自分たちも含めて、均等に、ですか」

「左様」

「自分たちで丹精した米ですから、均等に分けたら……」

「いいえ。小川では蓄えは富ではないのです。所有するという考えがなくて、余剰はあくまでも世の中の不時の備えと考えているのです。それができるのも、体が健康で気持ちよく働くからで、どうしたって収穫はよくなります。だからですよ」

「そんなに気前よくして一向宗門徒武士の人たちは政康殿に不満を持たないのですか」

「政康様に一度は助けられたことのある人たちばかりですからね。むしろ、こころから尊敬してますよ」

 織田久長は感嘆する思いで、正定に政康に合わせてもらえないだろうか、と、頼み込みました。

 さて。

 戦国史・日本史の考証の現場では、史料に記録されないまま時空のかなたに置き忘れられた事実があるという認識を持つことが重要です。史料主義は「史料にしかない」とする立場を取っているわけですが、統計調査でいう「中らずと雖も遠からず」程度のレベルで可視化できる見込みが立っております。たった今、述べているようにストーリー的に矛盾をなくす検証法を用いることで、蓋然性が担保されるためです。

 仮説検証法とどこがどのように違うのかと申しますと、史料の読み方にあります。つまり、史料主義の延長線上で検証してしまうところに仮説検証法の危うさがあるのです。戦国史・日本史の考証の現場における史料主義の不具合は考え方ではなくやり方(ノウハウ)にあると私たちが考える所以です。史料の文章をそのまま読むと概して読解力に不具合が生じることがままあることが確かめられております。それを防ぐためには関連する事実を時系列に沿って検索し、整理して歴史的光景として再現、可視化するのがストーリー・テリング検証法です。たとえば、文安五(一四四八)年十月二十三日、尾張守護又代織田兵庫助久長が妙興寺天祥庵規式で証判したときを一度目とした場合、久長が二度目に史料に名を記すのは応仁二(一四六八)年に如光が亡くなり、蓮如が蓮崇を同行してきて、これまでの上宮寺の権益を石川政康に一元管理させたときのことです。中間の二十年が空白なのですが、そのとき、久長はどこにいて何をしたかまったくわからないわけですが、二度目のステージに新たに生駒蔵人という登場人物、生駒屋敷という舞台を加えると、生駒屋敷を天下布武の軍資金の貯蔵場所にする計画がそこはかとなく見えて参ります。蓮如、英林孝景、織田久長、石川政康、本多正定、生駒蔵人、以上の六人が結びつくのを妨げる誤解は当該六人の間にはなくなりました。久長としては生駒蔵人と組んで津島湊からあがる権益を生駒屋敷に預託すべく、越前に根を残しながら尾張守護代となって舞い戻ったと推測すると、ストーリー・テリング的に矛盾がなくなります。石川政康もこれまで上宮寺が得ていた権益を含めて一元管理することで一挙にふくらんだ軍資金を尾張と三河を行き来する生駒蔵人の隊商に運搬させて生駒屋敷に預託する道筋が開けました。当然、久長や政康を介して英林孝景と蓮如にもそうした報告がなされます。後醍醐天皇が崩御ししたときに計画された天龍寺の完成が六年後だったことからもわかるように、吉崎御坊の開山計画が文明三年の開山より足掛け四年前の応仁二年の時点で英林孝景と蓮如の間で合意形成が図られていたとしても少しもおかしくないのです。生駒蔵人と生駒屋敷の存在が天下布武ストーリーの過程で生じる矛盾を解消する決め手の一つとして極めて大きな役割を担うことになるとする所以です。

 さらに加えるならば、文明三(一四七一)年から八十五年後の弘治二(一五五六)年のとき、主君家康(元康)を人質に取られた三河武士の窮状について述べた北島正元著『徳川家康』についても同じことがいえます。同書の記事は次のように述べます。

《元康の駿府質子の期間中、三河の松平武士団の動静はどうであったろうか。義元は三河の松平領の年貢は全部横領し、元康には形ばかりの扶持をあてがっただけなので、家臣へ知行をやることもできず、譜代のものの困苦欠乏は言語に絶するものがあった。みかねた元康が義元に、せめて松平氏の本領山中二千石余のところを返してくれるようにと懇願したが、一蹴された。したがって、譜代の家臣たちは、いずれも百姓同然になりふりかまわず泥にまみれて自耕自作し、かろうじて生計を立てるほかなかった》

 松平領の年貢がすべて横領され、家康には形ばかりの扶持があてがわれただけで、譜代のものの困苦欠乏は言語に絶するものがあったというのに、岡崎城の留守を預かる鳥居忠吉が家康に軍資金と兵糧の山を見せたり、戦場では常に今川の先鋒としてめざましい働きをみせるなどのことが語られているわけですが、そのようなことは、到底、不可能で、何かからくりがないと可能になることではありません。それを可能にしたからくりが、八十五年間以上もの長きにわたって生駒屋敷に蓄積された天下布武の軍資金なのです。

 史料文献の記事には以上のような矛盾がわずかの疑問も問題意識もなく述べられているわけですが、それが私たちのいう「仮説検証法の危うさは史料の読み方にある」とする理由の一つです。すなわち、時系列をどこまでずらしても矛盾がなくなってこそ「検証できた」ことになるわけで、関係者の顔ぶれは別として八十五年後も当該シチュエーションは変わらないものとして、そこに矛盾がなければ検証できたことになるのが道理です。

 それはさておき。

 文明三年の吉崎御坊開山に先立ち、蓮如が意図する天下布武に賛同し計画に参画する際につけた英林孝景の条件が「一向宗内部に監察役を入れ置く」ことだったというのが、私たちが最終的にたどり着いた結論です。その監察役が尾張守護代の織田久長であっても、しっかりした下部組織をつけてやれば任務を全うすることは十分可能です。むしろ、そうでなければ、説明に困ることが多いといえます。たとえば、永正元年に織田久長が楽田城を築いたとする記録は、広大な楽田原を挟んで存在する生駒屋敷と連携するもので、永正三年の井田野合戦の三河一向宗門徒武士団の騎馬五百の調練が行われた可能性を裏打ちしておりますし、当該武士団の軍資金の万一の際の移送先が楽田城であった可能性さえ示唆するものです。それゆえに監察役が越前の吉崎と尾張国に別れて存在することになったという説明が可能になって参ります。吉崎御坊開山に際して英林孝景が「一向宗内部に監察役を入れ置く」措置を講じたと考えたほうが、置かなかったとするよりも蓋然性が極めて高いのです。

 次回からは監察を置かないともっと大変なことになっていたとする負の面から「吉崎御坊に監察を入れ置く」必要性を考えることに致します。

 

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