重要事項書き抜き戦国史(168) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(334)

重要事項書き抜き戦国史《168》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《58》

信長はどのようにしてつくられたのか(その三十四)

 

 引き続いて、蓮如が如光と協力して三河国で一向宗を布教した年に石川政康が三河国に移住してきて小川城を築いた事実、翌文安五(一四四八)年、尾張守護又代織田兵庫助久長が妙興寺天祥庵規式で証判している事実について考察します。久長が尾張国で活動したことを示す二つ目の事実が記されたのは、応仁二(一四六八)年に如光が亡くなり、蓮如が蓮崇を同行してきて、これまでの上宮寺の権益を石川政康に一元管理させたときのことでした。石川政康はそのとき土呂御坊本宗寺を普請して蓮如に献上しております。あるいはまた、湯涌谷道場の蓮崇は、帰国後、蓮如の分身として振る舞うようになります。

 文安五年の引付記録に「織田大和守久長」の名が記されている事実が意味するのは、当該事案がどうのこうのではなく、最初の記録から2度目の記録まで20年間も記録が抜け落ちている、まさにその事実を浮き彫りにするものだからです。もちろん、あるはずの記録が何らかの理由で滅失したこともあり得ます。判断の分かれ目はどちらに納得のいく説明がつくかどうか、そこにあります。

 さて。

 当該記録は宝徳二(一四五〇)年に朝倉家景が享年五十歳で死去、英林孝景が二十四歳で第七代当主の座に就く二年前のものです。英林孝景を祖父の教景が補佐していたときでしたから、久長と当該女性との祝言は教景の意向が強く働いた可能性があります。その教景が他界するのは寛正四(一四六三)年七月十九日のことで、享年八十四歳でした。

 文正元(一四六六)年に礼銭三千貫文を持参して延暦寺と談判し、蓮如が和議を成立させる手助けをした如光が亡くなり、三河国における教団の統治を三河一向宗門徒武士団総代石川政康のもとに一元化したその年に、久長の尾張国における二度目の記録があるという事実が問わず語りに告げるのが、一度目の記録から二度目の記録までの二十年間、久長が英林孝景の依頼によって監察的な任務を帯びながら、蓮如と石川政康に接していたと類推する根拠です。

 どうしてそうなるのかと申しますと、当該二十年間。久長が尾張国にいて消息不明であるよりも、よそにいたために消息が記録されなかったと考えたほうが、説明としては合理的だからです。すなわち、本家筋の織田常松が時の越前守護斯波高経に見出されて越前守護代に取り立てられ、尾張守護代となってきたように、久長も教景から英林孝景の分身と見込まれて婿入りするかたちで尾張から越前へ行き、守護代に取り立てられたのが発端となって、それから二十年目、尾張守護代となって舞い戻ったと理解したほうが説明として説得力を持ちます。当該二十年間にはさまざまなことがあったと思われますが、蓮如と三河一向宗門徒武士団総代との出会いが、久長の一生を決めたといってよいでしょう。

 しからば、久長と蓮如、政康との出会いは、どのようなものだったのかと申しますと、もちろん、蓮如の吉崎御坊の開山計画が出会いのきっかけであったことは、前回の講座で説明しておきました。

 いずれに致しましても、前回述べたように、英林孝景が吉崎御坊の開山計画に乗り気になったのは、条々にある「天下静謐なりといえども、遠近の国に目付を置き、その国のていたらくを聞き候わんこと、専一に候」に基づいて監察を置く条件を蓮如が受け容れたからにほかなりません。しかし、それだけでは英林孝景をその気にさせるには条件が足りないのです。足りないところを久長が英林孝景に依頼されて掘り起こしたと考えますと、どういうことになりましょうか。

 英林孝景が懸念するもう一つの問題が、越前国内に藤島超勝寺、和田本覚寺、荒川興行寺などの基幹寺院を中核として一向宗の道場が各地にもうけられており、天台宗の白山越前馬場平泉寺、織田庄大谷寺、曹洞宗総本山永平寺などを刺激して揉め事の原因になりかねない恐れがあることでした。監察役を置くことに合意してから調べたのでは対策が後手にまわってしまいます。

 それなのに後手にまわらなかったということは、事前に必要なことが行われていたわけですから、それが久長の消息が不明になる二十年間の空白を埋める中身です。英林孝景から相談を受けて、急遽、久長は一向宗と蓮如について調査に着手したわけですが、まず、真っ先に驚いたのが、延暦寺が蓮如に突きつけた三つの条件でした。

 一、本願寺は延暦寺を本寺と仰ぎ、改めて西塔院の末寺に加わるべし。

 一、本願寺は光養丸を住持とすべきこと。

 一、本願寺は例年末寺銭三千疋を延暦寺の釈迦堂に奉献すべきこと。

 加えて、「但し、再興の儀あらば、何時なりとも重ねて罪科に処す」とあり、蓮如は一向宗の再興を禁じられてしまっていたのです。

 当然のことながら、英林孝景と久長の関心は「この危機をどうやって乗り超えたのか」という疑問に変わります。英林孝景と織田久長が探索に本腰を入れるようになったのは、実は、このときだったのです。そして、ここからが、平法中条流の歴史的帰結につながるもう一つのストーリーの発端なのです。

 結論から申しますと、英林孝景と久長の「蓮如は危機をどうやって乗り超えたのか」という疑問は現実が答えを出しておりますから、正確には「どのような手立てと手順によって」に二人の関心が移ります。英林孝景と織田久長が探索に本腰を入れるようになったのは、実は、このときでした。

 久長が消息不明になる二十年間の空白を埋めるのは、以上の説明で決してご都合主義でそうなったわけではないとご理解いただけると存じます。久長の調査の過程で蓮如が「善をなすにおいて消極的なりといえども、悪を懲らすことこそ大善なり」といっていることがわかりました。すなわち、「善をなすことに消極的なり」というフレーズの対義語「積極的に行うべし」がかかるのは「いくさという悪をなくす」こと、いわんとするのは天下布武のことであろう、と、理解してからというもの英林孝景と久長が蓮如との交渉に前のめりになったのは当然の帰結というべきでしょう。英林孝景は専守防衛の中条流平法の奥義をどうやって天下布武に結びつけるか、その答えとなるはずの久長の報告を楽しみにしつつ、蓮如から声がかかるまでを首を長くして待つことになります。

 

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