重要事項書き抜き戦国史(166) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(332)

重要事項書き抜き戦国史《166》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《56》

信長はどのようにしてつくられたのか(その三十二)

 

 蓮如が父親存如の死をうけて大谷本願寺第八世法主になるのは、それから十年後の康生三(一四五七)年です。文明三(一四七一)年の吉崎御坊開山よりも前に王法為本の実証実験が行われ、出会ったばかりの蓮崇(心源)に北陸の天下布武を担当させる意図を持っていた節が見受けられるとなりますと、一向宗の法主になるのを待ったうえで、しかも、山科本願寺の開山前に吉崎御坊を開山した重大事実が問わず語りに伝えるのが、英林孝景との二人三脚を前提にした王法為本の体制づくりです。

 それを裏づける証拠があります。蓮如が五年も前から吉崎に目をつけていた事実を、興福寺大乗院の門跡であった経覚が、文正元(一四六六)年八月五日付で送られた蓮如の手紙を読み、日記に「蓮如はどうやら越前に下向するつもりらしい」と書いているのです。蓮如の越前下向を事前に察知した英林孝景は、あらかじめ対策を考え、担当者の人選に着手しました。その人選のお眼鏡にかなったのが越前守護代となって織田一族で唯一越前に出戻った久長です。

 プロジェクト「信長をつくる」が構想され、実現するに至った原因のすべてがこの一点にあるといってよいくらい、重要な発見です。すでに尾張国に守護代としての地歩を築いていた織田氏の先祖が、英林孝景の片腕的存在でいて、あたかも蓮如が天下布武の構想を胸にあたためて現れるのを待っていたわけですから、まさに「天の配剤」というほかない出来事で、しかも神がかっています。

 さて。

 織田久長は英林孝景の祖父教景が活動した時代からの人で、教景の娘を正室に迎えています。ここだけを虫の眼で見てしまいますと、英林孝景よりもかなり年上のイメージを抱きがちになりますが、宝徳三(一四五一)年十二月二十日、第六代朝倉家当主家景が父親の教景(第五代当主)に先立って死去、嫡男の英林孝景が家督を相続した時点を基準にして考えますと、実際のところはどのようなことになりましょうか。

 仮に、織田久長が英林孝景より若いということは考えられないとしても、彼の正室になる教景の娘がまだ生まれていないこともあり得ないことではないわけですから、もし、それが事実と致しましても当該女性は「教景の娘、家景の妹」と表記されます。つまり、前述のように信長が那古野城に入る天文十年当時、久長が九十前後で存命であるためには、宝徳三(一四五一)年当時、英林孝景とあまり年齢が違わないことにしなければなりません。以上の推測が「ご都合主義」で終わらないようにするためにも、ここはしっかりクリアしたいところです。

 もっとも、宝徳三年当時、当該女性が誕生していないとしたのは、事柄の説明をわかりやすくするためにデフォルメしたものですから、父親の教景が存命のうちに久長と祝言をあげる必要がありますし、宝徳四(一四五二)年七月二十五日に改元されて亨徳元年となったこの年、嫡男の敏定が誕生していることから、当該女性は長兄の家景より三十近く若い年齢とみるのが自然です。久長もまた当該女性と年齢に差がないと致しませんと、天文十年当時の久長の年齢は百十を超えてしまうことになります。ご都合主義に陥らないためには、ここは結城合戦に参戦し、義教から斯波義淳の管領受諾の説得を命じられたのは久長ではなく、織田常松の嫡男朝長と訂正する必要性に迫られます。常松の嫡男はよくわかっておりませんが、当該人物が常松でも、常竹でもないのは理の当然ですから、朝長もしくはその縁辺の人物ということになります。

 かくして、宝徳三年十二月二十日、英林孝景が父親の家景の跡を継いで朝倉家の第六代当主になったとき、久長が十代であったとすることに矛盾がなくなりました。すなわち、久長が英林孝景の義理の伯父でありながら年下であることに何の矛盾もなくなったということです。以上のようなことは、文章や文法からすると明らかに矛盾しているわけですが、それでいながら、現実のシチュエーションでは十分に起こり得る実例の一つといえます。

 ところで。

 織田常松の嫡男ですが、朝長とする文献もあり、郷広とする文献もあり、あるいは敏広とする文献ありで、よくわかっていないのですが、嫡流の織田氏は兄弟ないしは親子で敵対するなどして自然消滅、常松の弟常竹の次男とされる久長の子孫を養子に迎えたことにより吸収されるかたちで途絶えてしまいます。つまり、信長や信秀からすると、織田久長は同時代に生存した高祖父・祖父という扱いになるわけです。私たちが天文十年の時点で久長が九十前後の年齢で存命であるという事実を優先する動機は、次回以後に言及していくことになる推移をも含めて、実はそこに存在するのです。

 ストーリー・テリング的に天下布武のストーリーをその発端から天文十年にプロジェクト「信長をつくる」として復活するまでの間、織田久長は主役級の役割を務めたメンバーの唯一の生き残りです。復活した天下布武の発端ともいうべきプロジェクト「信長をつくる」の主役級の役割を担う朝倉宗滴と石川清兼をプロジェクト・メンバーとして一体化できるのは久長しかいないのです。風が吹けば桶屋が儲かる式に因果関係を解き明かしつづけた結果がこれです。これまでのような平面的で平板な考証のやり方では、決して炙り出せない事実です。そこで、思うのですが、歴史考証の現場における「事実」とは何なのでしょうか。事実は「史料にしかない」という大前提を疑ってかかるときがきたとはいえないでしょうか。

 織田久長はもともと実在した人物ですから、発見というのはおこがましいのですが、発掘と同義語としていわせていただくと、詳細はなお不明ながら今後の解明に期待して叩き台の意味で、当該人物が行ったであろう事柄を書き出しておくのは、むしろ、私たち発見者の責務であろうと考えます。

 それはさておき。

 英林孝景と彼の叔母を妻に迎えた久長との絶妙の二人三脚を反映したのが第八代朝倉家当主貞景と宗滴の心の紐帯であると致しますと、逆もまた真なるか式にそこはかとなく見えてくるものがあります。

 

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