重要事項書き抜き戦国史(163) | バイアスバスター日本史講座

バイアスバスター日本史講座

バイアスがわれわれの判断を狂わせる最大の原因……。
バイアスを退治して、みんなで賢くなろう。
和製シャーロック・ホームズ祖父江一郎のバイアスバスター日本史講座。

バイアスバスター日本史講座(329)

重要事項書き抜き戦国史《163》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《53》

信長はどのようにしてつくられたのか(その二十九)

 

 越前守護代の甲斐将久、朝倉教景、織田久長が平法中条流の弟子であることを義教が知っていたとしたら、どういうことになるか――義満のときに剣法を指南した中条長秀と子孫の持平のことを、義教が知らないはずがないわけですから、答えは考えるまでもないことです。ただし、テーマを中条流の継承に移す前に、天下布武の規範「天下布武の流れに棹さす者は討つ。将軍といえども例外ではない、云々」に大きく関係してくる斯波義淳の十三代管領就任騒動の顛末と義満政権における中条氏と斯波氏の消長に言及することに致します。

 さて。

 義淳は将軍になろうとして画策した旧悪の露見を恐れて義教とは顔を合わせないでおりましたが、将軍の管領就任の命令を拒むというようなことは前例がないだけに、義教の呑めることではありません。義教は「このうえは、みずから武衛邸に乗り込んで、認めさせる」と息まきます。満済はあわてて義教を押しとどめ、将軍の御内書を携えて義淳を説得することで、その場を収めました。しかし、それでも義淳の説得に巳の刻(午前十時)から申の刻(午後三時から五時)まで、約七時間も費やしてのち、ようやく応じさせることができたのです。身から出た錆と申しながら、義淳が義教をそれほど恐れるからには、よほどやましいところがあったことになります。

 ところで。

 鎌倉時代の建長年間に源頼朝から三河国高橋庄の地頭から尾張守護に地位を引き上げてもらっていた中条氏は、南北朝の戦乱を経てもなお尾張守護の地位にあったと思われますが、応永六(一三九九)年、足利将軍義持が斯波義重を尾張守護と遠江守護に取り立てたことによって尾張守護の任を解かれ、守護代を務めた甲斐将教も更迭されるに至ります。義満政権時代まで中条氏と斯波氏は並び称されて特に不仲でもなかったはずですが、どうしてそのようなことになったのでしょうか。

 時系列座標を少し広めに取って関連しそうな事実を検索すると、赤松満祐と義持の怨恨が時空を超えて義教暗殺の結末に結びつくストーリーが浮き彫りになります。さらにそこに、足利高経(斯波高経)と中条長秀に関する事実を加えると、足利尊氏と義満の存在が権力争いを許さなかったことが原因とわかって参ります。天下布武の規範「一人の主となる者(天下布武の使命を担う有資格者)は武勇・情愛・慈悲を具備していなければならない」あるいは「天下布武の流れに棹さす者は討つ。将軍といえども例外ではない、云々」が参考としたケースの一つと考えてよさそうです。中条長秀の父親景長の兄長家と弟の秀長は三河国矢作川の合戦で新田義貞と戦い、その戦いぶりを目にとめた足利尊氏に認められ、他方、斯波氏の礎となった越前守護足利高経は藤島の合戦で南朝方の総大将新田義貞を討ち取ったことで、一躍、武名をあげました。情愛と慈悲については判断する材料がありませんが、尊氏、義詮、義満ら足利将軍三代にわたって寵愛を得た人柄にひっくるめて「具備していた」と理解するのが自然でしょう。

 ところが、取り立ててマイナスと解する材料のない中条氏が家伝の剣法の継承に地道に努めたのとは対照的に、高経亡きあと家督を継いだ斯波義将以下義重・義淳は三代にわたって権力闘争に明け暮れした挙句、みずから選んだ将軍のために凋落へのがけっぷちに立たされ、奈落の底に突き落とされることになります。いやいや管領を引き受けたものの義淳は生きた心地がせず、就任後、わずか五年で他界してしまいました。まだ三十八歳の若さでしたから、いかに心労の多い五年間であったかがわかります。

 将軍を補佐して治世を誤らせない役割の管領のなり手がいないとなりますと、義教の恐怖政治はとどまることがなくなってしまうわけですが、狂気の将軍足利義教の登場から始まったストーリーであるからには、義教の死で終わるのが筋です。ところが、発端は二代前の将軍義持に遡ります。戦国史の考証の現場にストーリー・テリングの手法を導入する際には、もちろん、発端と結末を探すことが不可欠ではありますが、発端を誤りなく発見しようとするには時系列の範囲を余分に過去に広げるのが肝要です。どういうことかと申しますと、当該事案においては「大凶義教」の影に隠れて見落としがちな「小凶義持」の例があるからです。いくつか事実を検索して、事実に語らせることに致します。

 まず、当該事実その一ですが、越前守護の足利高経は南朝方の総大将新田義貞を討ち取った功績によって、その後、足利幕府で重きをなし、人材を確保する必要に迫られます。そこで、心当たりの者を大勢召し抱えるわけですが、そのうちでもとびきりの俊秀がかつて越前織田庄の剣神社で神官を務めた織田常松でした。高経の死後、子の義将が斯波姓に改めて武衛家の呼称が用いられるのですが、義将を経て義重の代、すなわち応永六年の大内義弘討伐の軍功により、斯波義重が尾張国と遠江国の守護に任命されることになりました。と、いうことは、これまで尾張氏守護を務めた中条持平は更迭されたことを意味します。何の落ち度もなくやってきた持平にとっては腑に落ちない思いだったはずで、このとき、守護代も甲斐将教(将久の父親)から織田常松に交替させられております。

 新任の守護代織田常松は義重を補佐して在京することが多いため、弟の常竹が又守護代となって尾張守護所の下津城に入ったといわれますから、常松は武衛家の執事にも就任した可能性があります。私たちが織田常竹の子と理解する久長は、越前国に残って朝倉教景と越前守護代の職を継いのでしょう。

 こうして「風が吹けば桶屋が儲かる」式に天下布武の規範の構想に関係しそうな人物をピックアップすることで、個々人ごとの「めぐる因果は糸車」式に新たな糸口が見えて参ります。それが、斯波義淳が足利義教の管領就任命令辞退の際に使者に立った赤松満祐の新たな「めぐる因果は糸車」です。

 応永三十四(一四二七)年九月二十一日、幕府で重きをなした赤松義則が亡くなると、前将軍で院政を敷く義持は、亡き義則の嫡男満祐が所領の播磨国、備前国、美作国を相続することを認めず、播磨国を将軍の直轄地にして寵愛する近習の赤松持貞を代官に任じることで、事実上、彼に与えたのも同然の策謀をめぐらします。

「世の中から争いをなくして平穏な世の中にすべき立場にある者が、みずから争いの種を蒔くとはいかなる料簡か。ならば、望みに応じてやろう」

 満祐は憤慨して京の自邸にみずから火を放ち、播磨国に下っていくさの準備に着手しました。

 とりあえず、今回はここまで。

 

                     《毎週月曜日午前零時に更新します》