重要事項書き抜き戦国史(161) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(327)

重要事項書き抜き戦国史《161》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《51》

信長はどのようにしてつくられたのか(その二十七)

 

 しからば、何者かによって信長に伝えられた天下布武の規範がどのようなものであったかと申しますと、答えを探すには「結果が目的の法則」を用いるのが近道ですから、実際にそれを試みて浮き彫りになったのが以下の内容です。

天下布武とは申しながら基本は治世にあるのだから、一人の主となる者(天下布武の使命を担う有資格者)は武勇・情愛・慈悲を具備していなければならない。いくさをなくすためのいくさを最後の一人になるまで勝ち抜くためには、なかでも武勇が最優先される資質であり、次の条件が不可欠である。

(一)家中の士にとどまらず世の中の大衆にまで支持される必要があるから、双方の支持を得やすくするためにも当該資格者は嫡子でなければならない。

(二)天下布武の流れに棹さす者は討つ。将軍といえども例外ではないが、平法は無刀取り、すなわち鎮撫の兵法であるから、下剋上は禅譲をもって行う。

(三)付帯すべき他の諸条件は「無刀取り」に準拠して決める。

 以上、違背するべからず》

 天下布武の規範に「天下布武の流れに棹さす者は討つ。将軍といえども例外ではない、云々」を加えたのは、信長が足利義昭を奉じて上洛すると同時に就任したばかりの将軍の手足に枷をかけて追放するように仕向け、いくさをしつつも勝敗は決せず、最終的に退位を前提に和睦に持ち込もうとした史実に基づくものです。

 このような規範を事実の積み重ねに基づく教養体験によって信長の胸に刻み込ませることができるのは、天下布武の発足当初から存命の織田久長しか存在しません。しかしながら、織田久長が天文二十五(一五五五)年に他界する朝倉宗滴よりも長生きできたということはあり得ない相談ですから、信長が天皇の父となることで「天皇親政による統治」を実現させようと未知の領域に踏み込む決断したとき、すなわち、そうした動きにブレーキをかけるはずの清兼が天正六年に他界している事実に鑑み、彼が信長の規範遵守の監察役であったと考えるのが自然と考えたわけです。それゆえに信長の胸に天下布武の規範を植えつけた人物が久長であったとしても、清兼が立ち合うことは不可欠の要件であったと考えるのが筋です。

 もっとも、以上の規範が天下布武のため現実に存在したかどうかは嘘でも本当でもどちらでもよいことで、肝腎なのは規範が文言の通りに機能したことです。しからば、どうして当該条項が規範に盛り込まれたのかと申しますと、平法中条流の宗家中条氏の浮き沈みと切り離して考えることはできません。中条氏が最盛期を迎えるのは第二代足利将軍義詮と第三代将軍義満のときです。すなわち、暦応二(一三三九)年八月十六日、後醍醐天皇が崩御すると、初代足利将軍尊氏が開基となって天龍寺の創建に取り掛かり、六年後の康永四(一三四五)年、天龍寺が完成して落慶法要が営まれます。そのとき中条備前守秀長が甥の長秀(景長の次男)とともに尊氏に従って参列した記録が存在します。そして、延文三(一三五八)年、中条兵庫頭長秀が叔父秀長から中条家総領職を譲り受けて、中条流平法中興の祖といわれるようになるのですが、長秀はこのとき三十前後だったと思われます。至徳元(一三八四)年になりますと秀長の死を受けて長秀が家督を相続し、中条氏の本宗となり、将軍義詮、義満に仕えて評定衆など幕府の要職を勤め、将軍義満に家伝の剣法中条流平法を師範するまでになりました。中条兵庫頭長秀が剣法中条流中興の祖とされるのは、このためと思われます。

 しかしながら、中条氏は長秀の後が思わしくなく、長秀の死後、秀孝、詮秀、満秀といずれも短命に終わっています。中条氏を重用しつづけた足利将軍義満が応永十五(一四〇八)年五月六日に亡くなると、義満が存命のうちに四代将軍に就任していた足利義持の専横が始まり、跡継ぎを決めないままで応永三十五(一四二八)年に亡くなると、第五代足利将軍義量を挟み、永享元(一四二九)年、世間の一般大衆が「万人恐怖」と呼んで忌み嫌った足利義教が第六代足利将軍に就任します。

 足利義教がどういう人間だったかと申しますと、有力な守護大名に依存していたこれまでの軍事体制を改めるべく奉公衆の再編と強化を目的にして幕府直轄の軍勢を持つことに腐心したといわれます。ただし、何をするにも猜疑心が先に立って、些細な理由で、守護大名を殺害し、処罰するといった具合で、専横な振る舞いがつづいたため、武家や公家から蛇蝎のごとく嫌われ、恐れられました。斯波氏をはじめ畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏、今川氏らの家督継承に干渉しただけでなく、義教の意に反する態度を取った一色持貫と土岐持頼に至っては、大和永享の乱の味方の陣中で誅殺されてしまいました。歴代奉公衆を務めた中条家の当主持平が役目を免ぜられ、領地を没収された原因が何と「奉公衆らしからぬ服装をしていたため」といわれるくらいです。もちろん、服装は口実で、奉公衆再編という目的のため犠牲にされたとみるのが妥当でしょう。

 持平の名が再び現れるのが、永享十(一四三八)年に起きた永享の乱のときです。永享の乱は、実は南北朝時代からつづく大和国興福寺の二大門跡大乗院と一乗院の対立が背景にあって、それが関東に飛び火したというのが一般的な見方です。南北朝時代そのものは北朝方の室町幕府の勝利で幕を引いたわけですが、大和国に限ると興福寺の一乗院衆徒で幕府の支持を得た筒井氏と春日大社の神人(国民)で南朝方についていた越智氏の対立がつづいていて、応永二十一(一四一四)年を迎えると、興福寺の訴えを受け、不介入の態度を取っていた室町幕府が仲裁に乗り出し、大和の国衆を幕府に直属させ、「私闘をしない」ことを誓約させるに立ち至ったことに端を発しております。それでも両者の対立がくすぶりつづけたため、永享二(一四三〇)年二月、室町幕府は筒井氏と対立する越智氏の与力・豊田頼英の討伐を興福寺に勧告しました。ところが、箸尾氏が豊田頼英に加担するなどして、かえって戦乱をあおる結果になり、室町幕府将軍足利義教は箸尾氏に撤兵を勧告する羽目に陥ります。しかし、箸尾氏は撤兵に応じず、戦いは激しくなるばかりで、永享十(一四三八)年、義教の異母弟で大覚寺門跡の義昭が出奔して大和天川で挙兵する事態を招いて、興福寺大乗院衆徒の越智氏、箸尾氏のほか、比叡山山徒、山名氏、佐々木氏が挙って義昭に与力、あまつさえ遠く関東にまで飛び火して鎌倉公方足利持氏と管領上杉憲実の対立が激化する事態に立ち至りました。以上が関東で起きたと誤って認識されがちな永享の乱の真相で、将軍義教の足利持氏に対する執拗な敵意が背景にあったともいわれます。おのれの我意を通すためなら殺人だろうが、いくさだろうと、平気でやってのける狂人将軍義教にすれば、自分と正反対のことを求める平法中条流を真っ先に敵視したであろうことは火を見るより明らかです。

 天下布武の規範に「将軍といえども例外ではないが、平法は無刀取り、すなわち鎮撫の兵法であるから、下剋上は禅譲をもって行う」の文言を加えたのはだれかということは次回の講座で解明致しますが、当座、足利義教を念頭に置いた文言であろうということはご理解いただけたものと考えます。

 

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