重要事項書き抜き戦国史(157) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(323)

重要事項書き抜き戦国史《157》

ストーリーで読み解く桶狭間合戦《47》

信長はどのようにしてつくられたのか(その二十三)

 

 今回のテーマは松平信定が守山館(守山城の前身)を去ることになった経緯、織田信光が代わって入った時期について考察します。

 さて。

 犯罪捜査では事件によって最も利益を得る者を疑うのが原則です。守山崩れに関係した者で最も利益を得たのは松平信定と酒井忠尚です。反対に今川と石山本願寺から難問を突きつけられて苦しむのが三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼です。そのため「信長をつくる」プロジェクトを考案し、実行に移すことになるのですから、まさに「禍福は糾える縄の如し」です。

 まず、はっきりしていることから整理すると、これまでの推移から天文三年の時点で信定が守山館を出ていたことは確かです。守山館から出ることになった原因が、新編『安城市史・通史編1』の「あるいはこの年の賀茂郡侵攻は、両者の共同作戦であったかも知れない」というコメントに暗示されております。このことが「すでに上野城が信定の持ち城になっていた」事実を意味すると理解致しますと、同書のコメントのような書き方になるのが理屈です。共同作戦ですから否とはいえず、信定と酒井忠尚は清康に対してうわべは共同歩調を執りながら反清康に転じたと考えるのが自然です。天文三年の猿投神社焼き討ちの際に接収された上野城に信定は半ば強制的に移され、自分が出た守山城に信光が入って城塞化を進めたため、かたちのうえでは織田攻めの先鋒になったものの、天文四年の清康の守山城攻めには参陣せず、ひそかに「阿部定吉謀反」の噂を流布させたというのが、守山崩れの背景だった可能性が色濃くなるわけですが、信定が守山館を出た時期が特定されておりません。該当しそうな出来事を検索して参りますと、享禄二(一五二九)年における松平清康の一連の行動に目がとまります。

 すなわち、この年、松平信定は織田信秀に仕える酒井秀忠の居城品野城(愛知県瀬戸市)を落としてみずからの居城とします。次に五月二十八日、清康は今橋城を攻略し、さらに古くからの盟友戸田氏が支配する渥美郡に攻め入って、服従を誓わせます。十月六日を迎えて、松平一門で武勇の誉れの高い松平親盛が熊谷氏の宇利城を攻撃、松平信定の応援が遅れたため大手門付近で討ち死にてしまいました。信定が頼盛を見殺しにしたと聞くと清康は激怒し、十一月四日、宇利城を攻撃し、攻略してのち、親盛の応援に間に合わなかった信定を激しく罵倒するなど、相手構わずいくさを仕掛けております。とりわけ問題視されるのが、信秀の妹を正室に迎えたことで織田氏から守山に知行地をあてがわれ、屋敷をもっていた信定が織田家の臣酒井秀忠の居城品野城を奪って自分のものとしたことです。当然のなりゆきとして守山館を取り上げられ、知行地を没収されたのは間違いないところですから、織田信光が守山館に来て、城郭のつくりに改造したとみるのが自然です。

 ところで。

 織田信光が守山城に入ったのが享禄二年だったと致しますと、守山城に入る前はどこにいたかが問題になります。仮に楽田城にいたと推測して話を進めますと、少なくとも武勇に疑問符のつく信秀には信光が守山城の守将にうってつけですし、事実、信光が守山城の防御を強化して間もなく、守山崩れ、小豆坂の勝利と功績が重なり、信光の武名はそのたびに高まって、安祥城の接収につながって参ります。

 その出発点となったのが、実は守山崩れでした。天文四(一五三五)年十二月、清康が織田信光の守る守山城を攻めたとき、陣中に清康の側近阿部定吉が織田方に寝返りを策しているという噂が広がりました。清康は信じなかったようですが、定吉は子の正豊に「自分の身に万一のことがあったときは身の潔白を訴えよ」と命じて出陣します。ところが、大手門前に迫ったとき、放馬の騒ぎがあり、後方の本陣にいた正豊はそれを父定吉が討たれた騒ぎと早とちりして、近くにいた清康を愛刀村雨で殺害してしまいました。

 以上が「守山崩れ」の実相で、子の広忠が清康の跡を継いだわけですが、広忠は定吉を罪に問うこともなく重く用いつづけます。これまで羊の皮をかぶってきた信定と忠尚でしたが、清康の死を受けて岡崎城を横領し、広忠を追い出します。結果として松平氏はどうなっていったのでしょうか。新編『安城市史・通史編1』は次のように述べます。

《天文四(一五三五)年十二月五日と伝えられる守山崩れののち、松平一門・家臣を率いたのは松平信定である。『寛永諸家系図伝』には「清康君御逝去の後、一族・御家人悉く信定に従ふ、あたかも家督のごとし」とある。『松平記』は、信定は家督を狙いながらそれを隠して道閲や家臣に気に入られるようにふるまい、ついには「御隠居(道閲)をだまし」て家督の地位を得たといい、『三河物語』も、その気のないふりをして万事差し控えていたが、そのうちに皆をことごとく味方にしてしまったのだという。

(中略)

 通説に従えば守山崩れのとき、清康の子千松丸(千代丸または仙千代とも伝える、のちの広忠)は十歳であった。ただちに元服させて家督を継がせることも可能な年齢だが、家臣団は信定による家督相続を決めたのである》

 結果として、広忠は阿部定吉の手引きで国外に逃れ、今川義元に泣きついて、その後ろ盾により岡崎城を奪回することになるのですが、広忠は自分に危害を加えた信定を許します。つまり、義元が松平氏を滅ぼせなかったように、広忠も信定を罰することができなかったのです。このあたりの事情を新編『安城市史・通史編1』は次のように記します。

《『松平記』は、広忠が家督を継いでのち、家臣団の中に序列の変動があり、不和が生じたと伝えている。すなわち、信定と昵懇の者は軽んじられ、広忠の岡崎帰還に功績のあった阿部大蔵らが発言権を強めたので、岡崎城内ではいろいろ言い合いが生じたという。広忠帰還を成功に導いた阿部大蔵が政治の実権を握り、彼の息のかかった者を優遇したことは、充分に想像できることである。その阿部の背後に今川氏の圧力があったことも当然である。そもそも広忠・阿部政権は、今川義元の支援があって誕生したのであるから。一方これ以前信定は、織田氏との友好を外交の基本としていたから、この時期に尾張東部への進出を強めた織田信秀は、阿部に排斥された松平一門・家臣の不満を吸収し得る立場にあった。

 天文九(一五四〇)年六月六日、織田信秀の軍勢は三河に出陣し安城城を攻撃した。このときの安城城主は松平長家(安城左馬助)であったが、戦死した》

 こ織田方の攻撃経路となったのが守山・上野・長久手ルートでした。ここに至るまでの間、三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼はどうしていたのでしょうか。

 

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