重要事項書き抜き戦国史(151) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(317)

重要事項書き抜き戦国史《151》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《41》

プロローグ 戦国史Q&A《その41》

信長はどのようにしてつくられたのか(その十七)

 

 これまではだれも信秀・信長父子の仲に目を向けることがなかったわけですが、考えてみれば弟の勘十信行が嫡男絶対の当時、あえて弟に跡を継がせる動きが存在したのですから、どうしてそういう事態が生じたのか理由に言及しなければならないところです。パターンとしては豊臣秀頼が淀殿と大野治長の不義密通から生まれたとする学説と軌を一にするものですから、あながち、信長の場合もあり得ないことではないわけです。

 理由はこうです。

 信長は弾正忠家の嫡男です。織田弾正忠家は勝幡城を築いて津島湊を支配、伊勢湾の舟運からあがる利権を得て勢力を拡大し、天文元年から二年にかけて清須城の織田達勝と争い、天文三年に古渡城を築いて移る寸前に和睦しました。和睦した当時、信秀は達勝を追放して清須城におりましたが、清須城に信友を入れる条件で明け渡し、勝幡城には武藤掃部を城代として置いて、自分は古渡城に移ったのです。

 織田達勝は信長の父親信秀の岳父です。信秀の継室土田御前は達勝の娘でしたから彼は岳父と争ったことになり、土田御前が信長を懐妊していたとき夫婦仲は最悪でした。そうしたさなかに信秀と岳父の間で和睦が成立、新築成った古渡城へ信秀が移徒、そこでこの世に生を受けたのが信長だったことになります。

 信長には勘十郎信行という土田御前を母に持つ弟がおりました。こちらは信秀が岳父と仲直りしてから懐妊して生まれた子でしたから、仲の良い両親の偏愛を受けて育ち、目に入れても痛くないくらい大事にされました。

 あるいはまた信長には信広という八つ年の離れた兄がおりましたが、いわゆる庶腹の子でしたし、松平氏と対峙する最前線の安祥城に置かれておりましたから、信長が気にするような存在ではなかったと思います。

 問題は勘十郎信行です。同腹の弟の存在が本来なら絶対であるべき嫡男の座を脅かし始めたのは、信長が周囲の者から聞こえよがしに「不義の子」という陰口を聞くようになったためと考えられます。ほかに理由が見つかればよいのですが、目下のところ、該当する記録が見当たりません。ここは「結果が目的の法則」を適用するのが自然でしょう。

 すると、信長が忌避されたのは好き嫌いといった両親の主観的な理由が原因として浮上します。母親の土田御前と違って自分の子であるとの確証が持てない信秀には、信長を廃嫡して信行を嗣子に直したい意向が強かったことは容易に推測できます。

 はっきりいえることは信長も、信行も、古渡城で生まれたという事実です。一部の学者が勝幡城誕生説を唱えているようですが、信秀が城代を置いて古渡城に移っている事実に鑑み、信長を懐妊していた土田御前もついてきたとみなすべきです。

 さて。

 今川氏が那古野城を築いたのは永正三(一五〇六)年のことで、信州飯田の小笠原定基が自分と対立する兄の貞朝が足利将軍義澄に味方する斯波義寛と結んで今川氏親を攻撃したため、かねてより親密にしてきた今川の要請で那古野に城を築いたのが事の起こりでした。氏親はそのとき伊勢新九郎を名乗った北条早雲と三河国を攻撃中で、清須城の斯波義寛が治める尾張国はいくさの圏外にあって無風でした。斯波義寛はそのために油断して、気づいたときは城の外郭が完成していて間に合わず、みすみす完成するのを黙って眺めているほかなかったのではないかと推測致します。その後、那古野城に入った今川氏豊が京から名のある宗匠を招いて連歌の会を頻繁に催したため、周辺に脅威を与えることもなく平穏理に歳月が過ぎて行きました。それをよいことに、天文三年、信秀は那古野城のすぐ南に古渡城を築いて勝幡城(正確には清須城)から移り住み、連歌の会の常連になりすまし、城内に自分が泊まるための部屋を氏豊につくらせます。それから四年間というもの連歌の会があると泊まり込みで参会して周囲を油断させてから、天文七年のある夜、内から門を開いて織田の軍勢を引入れて那古野城を制圧、氏豊を捕らえて追放しました。流血の事態が避けられたこともあってか、これまでと変わらないようすで連歌の会が催されたため、異変に気づく者もなかったかに見えましたが、信長はそのような詐術を用いて那古野城を手に入れた父親を尊敬する気持ちになれなかったと思います。

 古渡城を築いてまで、何故、那古野城を今川から奪う必要があったのか。

 信長が疑問を抱いたとしたら、どういうことになりましょうか。

 信秀はこうして手に入れた那古野城を信長に与えたうえで、天文十七(一五四七)年、守山城の真南に末森城を築いて弾正忠家の新たな拠点としたうえで、土田御前と信行を伴って移ります。

 プロジェクト・マネジメントの分野では「疑問が生じたら九割方解決」といわれます。切り口がわかればそこを突破口にして検索力を発揮しつつ関連する事実を網羅してモンタージュを重ねていけば、不明な点が次第に明らかになり、いつしか答えに行き着くからです。実は信長を那古野城に追い出したうえで末森城を築いて信行とともに移ることが信秀の意中を問わず語りに明かしているのです。

 信長を廃嫡して信行に弾正忠家を継がせる。

 これこそ、プロジェクト「信長をつくる」の必要最低条件なのですが、これをわかるように説明するためには「風が吹けば桶屋が儲かる」式に関連する事実に語らせていくことになります。すなわち信行が弾正忠と称して発給した文書の存在が確認されていて、信長の後見人でありながら信行に乗り換えた林佐渡守秀貞ら多くの家臣たちが信長から離反したのは、清兼の何らかの画策が主な原因であったにせよ、彼らに「信長についていたら未来はないぞ」と思わせるシチュエーションが信秀の「信長を廃嫡させる」方針によって醸成されたためであることは疑いようがありません。

 那古野城の周囲のごく限られた地域に古渡城、末森城と十四年の間に城を二つも築いたのみならず、二つ目を築くと同時に一つ目を廃城にするといった行動はいかにも恣意的ですから、ここを素通りするわけにはいかないでありましょう。

 次回の講座では信秀の意図するところを「清兼の何らかの画策」にからめながら解き明かすことに致します。

 

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