重要事項書き抜き戦国史(135) | バイアスバスター日本史講座

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バイアスバスター日本史講座(301)

重要事項書き抜き戦国史《135》

第三部 ストーリーで読み解く小田原合戦《25》

プロローグ 戦国史Q&A《その25》

信長はどのようにしてつくられたのか(その一)

 

 ようやく「信長をつくるプロジェクト」というテーマに言及する段階にたどりつきました。しからば、歴史的帰結を知る私たちが見ている信長はどのようにしてつくられたのでしょうか。プロジェクトを大づかみにしていうと、プロジェクトリーダーは申すまでもなく三河一向宗門徒武士団の時の総代石川清兼です。チームのメンバーは越前の朝倉宗滴、東三河の戸田康光、尾張の水野信元、梶川高秀、生駒家長、当座、以上の六人としておきます。プロジェクト発足の目的は「今川打倒」で、動機は「今川が松平竹千代を人質に要求してきた」ことにあります。

 さて。

 今川を倒すために永正のときからあたためられてきたのが桶狭間の田楽坪へ今川の上洛軍を誘導することで初めて成り立つ待ち受け作戦「田楽狭間の一本道作戦」であることから、作戦の秘密保持が絶対命題でした。それゆえにまわりに支持する者がいない信長が当該作戦の実行役に選ばれたわけです。と、なりますと、今川を倒すだけでは信長政権は成り立たないのですから、あらかじめ対今川全面勝利後のことを見通して、家臣団を形成できるよう道筋をつけておかなければなりません。当然のなりゆきとして、織田一族の間で起きるであろう権力闘争は不可避とみて、手を打つ必要がありました。事実、歴史はそのように推移したわけですが、一族の権力闘争の帰結がまだ予測のつかない段階のことですから、歴史的帰結を前提にして動くことはあり得ないわけで、織田家以外に後方支援勢力の存在が必要でした。すなわち、三河・尾張・美濃一円にメンバーが存在する三河一向宗門徒武士団が最大の支援者であり、越前の朝倉宗滴であり、両者が味方につけた美濃の斎藤道三が候補として浮かびます。

 しからば、道三をメンバーに加えるために、どのような手が打たれたのでしょうか。

 歴史的帰結は以下の通りです。

 天文十五(一五四六)年の秋、斎藤道三は美濃守護土岐頼芸の退任を条件にして越前朝倉家当主孝景・土岐頼純と和睦します。このとき、土岐頼純は道三の娘帰蝶を室に迎えました。帰蝶と婚約していた信長、父親の信秀とも面目丸つぶれです。

 ところが、天文十六(一五四七)年に今川義元が松平広忠に継嗣竹千代(六歳)を人質に要求したため、八月二日、三河国渥美郡田原城主戸田康光が竹千代を拉致して尾張国に連れ去る事件が起きまた。事件を受けて、天文十七(一五四八)年、反目していた信秀と道三が和睦、信長が帰蝶を正室に迎えます。

 問題はここです。

 信長と帰蝶の関係をうかがわせる史料はほとんどなさそうですが、一度、破棄された婚約が蒸し返されるかたちで、あたかもそれが目的であったかのように和睦がまとまるというのは、あまりに不自然な事態の推移ではないでしょうか。

 ここは、かつて道三と戦って使用利した宗滴の働きかけが功を奏したとみるのが妥当です。織田久長が存命であったか否かは生没年が不明なため、どちらともいえないわけですが、梶川高秀が家老レベルの重い役職で楽田城にいたのは間違いなさそうですから、梶川氏を楽田城に送り込んだ石川氏の存在が無視できなくなって参ります。当然、美濃から尾張、三河一円に門徒を展開させる三河一向宗門徒武士団の総代石川清兼の存在も物をいったとみなすのが筋でしょう。

 次に解き明かさなければならないのが、戸田氏と石川氏の関係です。戸田氏の宗旨は曹洞宗ですが、戸田氏中興の祖宗光の次男家光は浄土宗大樹寺に事あるときは何をおいても警固に駆けつけることを誓った松平一族連判状に連署しております。兄の憲光は田原城の城主で、政光、康光とつづきます。家光本人の消息は不明ですが、当該連判状が松平一族間のいかなる序列も排除して対等な関係(次第不同)で結束することを意味する「一揆契状」であることから、松平氏との連携を維持することに重きを置いて連署に加わったものと思われます。

 三河一向宗門徒武士団と松平氏との関係も「次第不同」ですから、表面的には主従関係のかたちを取りながら現実は対等であったことがわかります。

 しからば、石川清兼と戸田氏の関係はどうだったのかと申しますと、松平氏、織田氏、水野氏、梶川氏を取り込もうとしてきた清兼が、戸田氏だけ放っておく理由はありませんし、松平氏と戸田氏の結びつきを思えば両者の結びつきは最重要事項だったと考えるのが自然です。

 永正の大乱として総括される「今川の東三河進攻」当時、清兼は十五歳見当、康光(当時の名は曽祖父から譲られた宗光)は十歳前後でしたから、二人の盟約関係は四十年もの長きにわたって培われたことになります。それゆえに、何か大きな目的(たとえば天下布武、竹千代を征夷大将軍にすることなど)のため、子孫の存続を清兼に託し、康光が身を犠牲にして竹千代拉致を実行した可能性が極めて高いのです。

 と、なりますと、信長は家康が大樹君(征夷大将軍)になるための捨て駒、つなぎの役目になりますから、信長がいつまでそうした立ち位置に甘んじているかどうかが、難問として行く手に立ちはだかります。しかしながら、事態は切迫しておりますから、緊急避難的に「信長をつくるプロジェクト」は決断するのやむなきに至り、果断に進められたのでした。

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 令和五年の今年も連載最後の週を迎えました。いつもお付き合いくださいまして、ありがとうございました。令和六年も引き続きよろしくお願い申しあげます。

 

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