国歌大観【320】【412】

以前 地元の先生から頂戴した、土成町についての詳細な研究資料集。
土御門帝についての論文をふと読み直すと、お歌が2首紹介されていました。

句題和歌のシリーズから離れて、ご紹介します。
ともに 『土御門院御集』 に収められているもの。


此比は あるじもしらぬ 梅の花 
春やみやこの こずゑのみかは


*此比(このごろ)


これは菅原道真の有名な 「こち吹かば にほひおこせよ 梅の花  主なしとて 春を忘るな」 の本歌取り。



うつの山 過ぎにし夢の おもかげに

みはてぬ夢は うつつなりけり
 

こちらは在原業平による 「駿河なる うつの山べの うつつにも  夢にも人に あはぬなりけり」 を本歌とするものです。 
 

歴史学者・田中省造氏が、この論文で土御門上皇は自ら土佐~阿波へ遷られたのか、幕府による配流なのかを考察しておられます。
 

土御門院は (都に残られることを勧める幕府の意向に対して) 自らのご意思で土佐に遷られたという通説は 『増鏡』 などによるものです。
ただ、慈円の 『愚管抄』 には 「被 流刑 給」 という表現があるように、実際に配流だったという可能性もあるのです。
その点について田中氏は次のようにまとめられています:
a) 土御門院は父・後鳥羽院同様、流罪を望んだ
b) 幕府はやむをえず流罪の体裁をとった
c) 土御門院はみずからを流人だと考えた
d) しかし 幕府や朝廷は土御門院を流人とはみなさなかった



*「総合学術調査報告 『土成町』 

郷土研究発表会紀要 第36号」(平成2年) 阿波学会・編著/徳島県立図書館・発行

冒頭の2首は、このうちの c) の結論の根拠。
有名な流人にご自分の身を重ねて詠んだものだとされています (在原業平は左遷された身の上で詠んだ歌か、と)。
そういえば後鳥羽院にも、ご自身の身の上を、過去の悲劇の主人公に重ね合わせて (どこか楽しみながら) 配流の途中や隠岐で詠まれた歌があったように思います。

ちなみに b) の説明として、隠岐、佐渡、そして土佐は当時の法律 『延喜式』 が定める配流地 (最も重い「遠流」) に準じたものだを記しておられます。
「近流」:越前国、安芸国
「中流」:諏訪国、伊予国
「遠流」:伊豆国、安房国、常陸国、佐渡国、隠岐国、土佐国

?…そう、阿波は配流先とされていないのですね。
土佐へ一旦お送りして遠流の形をとったということでしょう。

そんな前例のひとつとして、承久の乱の14年前に法然上人が 「承元の法難」 で土佐への配流と決められながら、実際には讃岐で10カ月ほど過ごしてから京都に近い摂津の勝尾寺に移されています。

d) の結論には、三帝への諡号で説明されています。
後鳥羽院に当初贈られた 「顕徳院」 (のちに取り消して後鳥羽院に)と、「順徳院」 の “徳” の一字は 「崇徳院」 や 「安徳院」 の例によって怨霊をなだめる意図。
いっぽう 「土御門院」 は里内裏の名によるもので、亡くなったのは配流先だと朝廷がみなさなかったことを表している 「なによりの証拠であろう」 ということです。
私が以前ブログでご紹介したことの傍証になりそうです。

後鳥羽院が亡くなった頃、鎌倉では騒乱が続いたために鎮魂のために鶴岡八幡宮の奥に神社;今宮が建てられます。
そこに祀られたのが、後鳥羽院 と 順徳院、長賢(護持僧) の3人でした。

 

建立当時、土御門院は祀られていません。ということは配流先で恨みを抱いて亡くなったのではない、そう見なされていたわけです。
護持僧に代わって土御門院が祀られたのは、明治時代になってからとのこと。
不審に思われた人があったのでしょう。



 

土御門帝の想い~責任感の一端を拝察し、鎌倉幕府の帝に対する態度についてのご紹介でした。