土御門帝の時代の文化的な意味について、認識を少し改めました。

 

 

『藤原定家の時代』のまえがきで、五味文彦さん*が次のように指摘されています。

 

「(前略)しかし鎌倉時代に入って、すぐに武家社会となったと考えてはならない。京都の朝廷を中心とした貴族社会が、鎌倉の武家社会と併存して存在し、新たな文化の革新を遂げつつあった。実はこの 鎌倉初期 の貴族文化こそ、その後の 王朝文化の枠組み をつくったといえる。今日見る、あるいは考えられる王朝文化は、この時代まで遡る。ここでつくられた、「雅(みやび)」「もののあわれ」「幽玄」などの文化のイメージをわれわれは王朝文化と認識しているのである。(中略)簡単にいえば、王朝文化の本格的な研究・学習が始まったのである。『源氏物語』や『枕草子』の注釈書が書かれ、『古今集』を手本とする『新古今和歌集』が編まれたのがこの時代であった。この時代に始まった王朝文化の学習の方法が、その後の王朝文化の学習の手本となって継承されたのである。」

 

そんな動きの先頭におられたのが、平氏と安徳帝の都落ちによって即位された後鳥羽帝。18才で土御門帝に譲位、公式行事から離れてからは “武” の鎌倉幕府に対抗する “文” の力を信じて「文化の革新」を推し進められたのです。


その象徴の一つが下級貴族だった藤原定家を登用して完成させた『新古今和歌集』でした。

『新古今集』の序文に 「『やまと歌は世を治め民を和らぐる道とせり』と記され、真名の序にも『誠に是れ理世撫民の鴻徽』と記されて、和歌は天皇による人民統治の手段であると述べている」(『藤原定家の時代』p.187)

 

定家は 『源氏物語』 の注釈書として重要な 『源氏物語奧入』 も残しています。

故実や史実の考証を写本に朱で書いたり付箋を貼ったりしたものが集められて独立したもので、定家自筆の奥入は国宝指定されていることからも、その重要性がうかがわれます。

 

 

また父・後鳥羽帝の意向で土御門帝に代わって即位した異母弟・順徳帝は 「王朝時代の有職故実研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『禁秘抄』 を著した。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親交があった。家集としては 『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した 『八雲御抄』 が知られる。『続後撰集』 以下の勅撰集には159首が入る」(Wikipedia) と、やはり伝統文化の力で腕力の武士に対抗しようとしたようです。

 

この緊迫感のある空気のなかで、天皇として12年間上皇として承久の乱まで10年間

ほんとうにさまざまなことを都で見聞きし、考えられたことでしょう。

 

このブログでは、そんな土御門帝の思いを “想像” しながら 歴史 を掘り起こしています。

 

 

*五味文彦(1946年- ; 歴史学者。東京大学・放送大学名誉教授。当時は東京大学助教授)