続きです。
河原町通りはいつもに増して賑わう年の瀬の夜、長仙院でのこと。
吉良住職がお持ちくださった厚い単行本。
タイトルが 『親鸞は源頼朝の甥』!。
え、おい?
親鸞と後鳥羽帝がともに姉妹を妻にしていたなどというビックリに加え、頼朝の一族とは…!?
そんな話もまた、聞いたことがありませんでした。
西山深草というのは、吉良師のペンネーム。
もちろん浄土宗西山深草派*1 からとられたもので、長仙院は目の前の同派総本山・誓願寺の塔頭だということでした。
頭がぐるぐるしてきたので、安楽寺でのお話会のために作った系図をご覧いただきましょう。
中央に 法然 をおきます。
右側に、その法然に帰依した関白・九条兼実。
二人の娘が、宿命の 後鳥羽帝 と 親鸞 を結んでいます*1。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/4d/ee/j/o1024053614469411582.jpg?caw=800)
玉日の存在ははっきり認められていないようですが、ここでは実在したものとして考察を進めます。
親鸞の系譜をたどれば、確かに…。
母方の祖父は清盛との戦いで敗死した源 義朝、頼朝の父。
さらに父方の祖母は義朝に仕えた中原久経の娘で、父はやはり源氏の系統の日野氏と、バリバリの源氏の御曹司ではないですか。
この血縁が、清盛の死後に源氏の残党を摘発していた平氏の追及を逃れるために、出家させられたとされます。
徳島県美馬市の千葉山安楽寺(浄土真宗本願寺派)のホームページにも、親鸞の出家について:
出家の理由は何であったか定かではない。 五人兄弟(尋有・兼有・有意・行兼) いずれもが延暦寺・三井寺で出家 している。父の入道隠棲といい、一家ことごとく仏門に入るには、容易ならぬ重大問題に巻き込まれた ようである。
有範の父経尹の放蕩によって、将来の出世の道が閉ざされたとも、勤め先の皇太后が亡くなり、失脚をして入道となったとも考えられるが、理由としては弱い。
他の原因としては、治承四年平氏討伐に敗れた 以仁王 ・源頼政と深い関係にあったのではと、みられる。有範の弟宗業は、以仁王の学問の師であった。王が敗死したときに、遺体の確認に呼ばれている。
出家の理由は何であったか定かではない。 五人兄弟(尋有・兼有・有意・行兼) いずれもが延暦寺・三井寺で出家 している。父の入道隠棲といい、一家ことごとく仏門に入るには、容易ならぬ重大問題に巻き込まれた ようである。
有範の父経尹の放蕩によって、将来の出世の道が閉ざされたとも、勤め先の皇太后が亡くなり、失脚をして入道となったとも考えられるが、理由としては弱い。
他の原因としては、治承四年平氏討伐に敗れた 以仁王 ・源頼政と深い関係にあったのではと、みられる。有範の弟宗業は、以仁王の学問の師であった。王が敗死したときに、遺体の確認に呼ばれている。
又、聖人の 母が、源氏の出身 であったことも無視できない。
→ http://www.anrakuji.net/topics/myouon/09myouonMhouon.html
→ http://www.anrakuji.net/topics/myouon/09myouonMhouon.html
まさに、それもこれも~でしょう。
親鸞の戒師は、関白・九条兼実の弟で、後鳥羽歌壇の主要メンバーのひとり、比叡山の 慈円*2 です。
当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で 法然や弟子の親鸞を庇護 してもいる。
なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に 慈円について得度を受けている。
→ Wikipedia 慈円 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86
いきなり大僧正についたのは兼実の口利きがあればこそでしょう。
この親鸞の血統を見れば、慈円の使者として後鳥羽帝に面会したり、その帝の中宮(正妻)の妹を娶ることになるのも、なるほど、とうなづけます。
のちに法然のもとに移り、法難に巻き込まれたのは想定外でしょうけれど、一応 源氏政権 の鎌倉幕府が主導権を握っている時代。親鸞を処罰することがためらわれたのかもしれません。
ちなみに、法難において処刑された4人はおよそ次の条件を満たしているようです。
・武家、特に源氏の家系
・比叡山や興福寺から非難された布教様式を主導
・法然の教団にあって “正統(主流)派” ではない
安楽坊の僧名は遵西。
別に“僧坊”~個室か末寺をもっていたということでしょうか。
遵西 (じゅんさい)
生年不詳 - 建永2(1207)年2月9日
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての浄土宗の僧。
父は 中原師秀。房名は 安楽房 (この房名から安楽とも称される)。
俗名は中原師広。
大蔵卿 高階泰経 に仕えた後、出家して法然に師事した。
1192(建久3)年、法然が大和国八道見仏の発願により八坂引導寺で別時念仏を修する際、遵西は住蓮とともに六時礼讃を勤行している。
1198(建久9)年、法然が 『選択本願念仏集』 を撰述する際には、その達筆の故に執筆役を命じられている。が、それを驕った為に途中で執筆役を解任されてしまった。
音楽的才能に恵まれ、同門の住蓮とともに 六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。
しかし、1205(元久2)年、興福寺の僧徒から 『興福寺奏状』 をもって専修念仏停止の訴えがあった際、行空 とともに非難の的となり、1207(建永2/承元元)年、後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等で罪に問われ、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに斬首刑に処せられた*3 。
この事件は、法然が讃岐に、親鸞が越後に、それぞれ配流された 承元の法難の直接のきっかけ となった。
→ Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B5%E8%A5%BF
国宝 『法然上人絵伝』 で有名な一場面です。
巻三十三、六条河原で安楽、斬刑。
巻三十三、六条河原で安楽、斬刑。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/c2/e7/j/o0443017514469411603.jpg?caw=800)
官人秀能に仰せて 六条河原にして安楽を死罪に行なはるる時 奉行の官人に暇を乞ひ 一人日没(にちもつ)の礼賛を行ずるに 紫雲空に満ちければ 諸人怪みをなす所に 安楽申しけるは 「念仏数百遍の後 十念を唱へんを待ちて斬るべし。 合掌乱れずして右に臥さば 本意遂げぬ と知るべし」 と言ひて 声高念仏数百反の後 十念満ちける時 斬られるに言ひつるに違わず 合掌乱れずして右に臥しにけり
向こう岸に多くの見物人が描かれています。
人目があったにせよ、罪人にしては実に堂々とした態度だし、その意向が尊重されています。
この詞書が事実だったとすれば、彼の “本意” とはなんだったのでしょう。
住蓮については吉良師が調べておられます:
興福寺の悪僧信実は 清和源氏 の血筋で学問があり、しかも 「日本一悪僧武勇」 といわれ、その息子の玄実は 「天下第一武勇精兵」と いう評判があった。そして住蓮は玄実の孫であった (『尊卑分脉』)。
(『親鸞は源頼朝の甥』 p.408)
“悪僧” の悪は 「強い」 というニュアンスで、僧兵を意味するようです。
先に法然から破門となった法本坊行空*4 も、当初は高弟とされていましたが、教団内の教義(一念義、多念義など)の対立や布教法の違いなどによる分裂によって押し出されたようです。
また 『歎異抄』 で一番と二番に挙げられた二人、西意善綽房 と 性願房は、親鸞、あるいは安楽のボディーガードとして送り込まれていた元・武士だった可能性もあるようです。
つまり、処罰の対象になった面々はなかなかのツワモノ揃いだったようですね。
そして、ついに後鳥羽帝の命が下されます。
まず、2人を “起訴” するところから。
院政をしく後鳥羽帝と朝廷(土御門帝)の間にいた役人・三条長兼の日記 『三長記』 には(現代語訳):
元久3(1206)年2月14日、後鳥羽上皇が法本房と安楽房を召喚せよと院宣した。
法本房と安楽房を配流すべきであると興福寺の衆徒が重ねて訴えてきたからこの沙汰になった。
操行においてよくない点があっても、彼らが勧めていることは ただ 念仏往生の教義である。このことによって罰せられることは非常に嘆かわしいことである。
このような信仰問題を奉行しなければならないことは、自分が前世に犯した罪業のためだろうか。
延暦寺と興福寺が協調して専修念仏停止を要求している。もし日枝社と春日大明神の神慮に背くのであるならば彼らに咎があることになるのか。両人を逮捕するように左佐親房に命じた。
三条長兼は法然と九条兼実にも近い人物。
イヤイヤ感でいっぱいです。
この雰囲気が朝廷内に充ちていたのではないでしょうか。
2月の院宣については法本房と安楽房、2人の“呼び出し” しか記されていません。
Wikipedia では:
興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。その結果、3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門 にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。
ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には 「八宗同心の訴訟」 であると高らかに謳っていたにも関わらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。
そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。
→ Wikipedia 承元の法難
そんな状況下で下された4人の処刑、そして法然と親鸞の配流決定の経緯は不明。
処刑もすでにみたように、帝の側近・尊長による“私刑” として(尊長の領地・滋賀県の江州馬淵で)おこなわれたことになっています。
吉良師は、その背景に後鳥羽帝の事情があったと考えておられます。
浄土宗西山深草派 宗学会の、私がはじめに目にした 「親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆」 という吉良師の論文には:
延暦寺と興福寺が専修念仏教団を取り締まれと要求し、朝廷で議題にされ、そのうえ 「密通事件」の有無が論じられると、親鸞玉日の結婚は後鳥羽院の耳に届かずにはいられない。
後鳥羽院は自分が専修念仏僧の同類に堕とされたと感じた。
「朕は専修念仏僧によって虚仮にされた」 と受け取ったのではないか。久我通親も源頼朝も既にこの世から去っていたが、反鎌倉幕府派であった久我通親の同調者は必ず宮中にいたであろう。そういう 反鎌倉幕府グループが九条兼実を中心とする親鎌倉幕府グループを攻撃 したのである。
そして九条兼実は失脚し、慈円も天台座主をやめ、宜秋門院任子も出家した。
でも、後鳥羽帝が親鸞と正妻を通じて縁戚となっていたことを知らなかったというのは、私には不自然に思えます。
朝廷内に多くの信者がいた法然の弟子で、源氏の子が、なんと後鳥羽帝の正妻の妹と結婚したというのは大ニュースになったのではないでしょうか。
ちなみにこの論文で、『百人一首』 98番、藤原家隆も*5 また、親鸞の縁戚となっていて、この沙汰に連座して謹慎したと、吉良師は調査の結果推定されておられます。
これはまた 『百人一首』 の味わいが深まります。
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりける 従二位家隆
みそぎぞ夏の しるしなりける 従二位家隆
みそぎ…。賀茂斎宮だった式子内親王への思いを重ねて撰ばれたとはいわれる一首ですが、そこに家隆自身の微妙な立場もあったのかもしれません。
さて、法難の実体に迫るときがきました。
研究者によっては法難自体が偽装工作だったのではないかという疑義さえ提示されています。*5
当時は上皇に天皇以下、宮中の面々が法然に帰依しているわけで、比叡山や興福寺の手前おこなわれた、表向きの処分だという見方ができそうなのです。
当時の政治状況を眺めてみると:
◇後鳥羽帝は鎌倉三代将軍・実朝とは良好な関係を維持している
◇同時に鎌倉勢力に対する上で比叡山や興福寺、熊野などと良好な関係を保とうとしている
そして
◇源頼朝につながる出自の親鸞は摂関家の九条家が保護している
◇後鳥羽帝自身を含む多くの貴族が法然に帰依している
こういった状況のかなで、むしろ話をゴシップに落として政治的な影響を避け、法然と親鸞の師弟をほとぼりの冷めるまで洛外に移すことで守ろうとしたという仮説が成り立ちそうです。
法然は土佐を経て九条兼実の領地である讃岐に、親鸞は親族が前年に領地の監督を任じられ、また妻となる恵信尼の出身地である越後へと流されるのですが、その経緯や現地での記録がほとんど残っていないようです。
親鸞はその後関東を中心に布教を続けますが、そこにはなんと、あの!宇都宮蓮生の弟*6 が・・・。
仏教界の新聞 『中外日報』 の記事に、次のようにあります。
筑波大名誉教授・今井雅晴(2014)
戦国時代末期以降の史料ながら、親鸞が住んだ稲田草庵の跡の 西念寺 では、親鸞は兄の宇都宮頼綱 の命を受けた 領主 稲田頼重に招かれたという。
同じく笠間草庵の光照寺では 笠間城主 の庄司基員が招き、小島草庵に関する伝えでは小島郡司武弘が招いたという。大高山願牛寺の伝では、領主 稲葉勝重 が招いたとされる。
親鸞は住む当てもなく関東へ来たのではなく、きちんと迎えてくれる人がいたと考えるべきである。関東側の史料では、そろって親鸞は豪族に迎えられたとしている。当然、安全な旅が予測される。高田本系統の 『親鸞伝絵』 に、先導する武士の姿 が描かれている。
親鸞の伝記の根本史料であるこの 『親鸞伝絵』 によれば、親鸞は「越後国より常陸国に越て、笠間郡稲田郷といふ所に、隠居したまふ」とある。
稲田の領有関係をみると、下野国南部・中部から常陸国笠間郡を勢力圏とする大豪族 宇都宮頼綱の支配下 にあったことがわかる。
頼綱は鎌倉幕府の執権北条義時の妹を妻とした幕府の有力者でもあった。また親鸞が一生の師と仰いだ法然の最晩年の門弟で、実信房蓮生と名乗った 親鸞より5歳年下の弟弟子 であった。
頼綱が法然門下の俊秀親鸞のことを知らないはずはない。また親鸞が頼綱に無断でその領地に住み着くはずもない。
西念寺を中心にして30km圏内に門弟が収まるといい、62、3歳頃に京へ帰るまでの約20年間、稲田を拠点としていたというのです。
宇都宮蓮生も鎌倉幕府や師の証空に無断で親鸞一家を迎え入れるとは考えられません。
私の仮説のように証空のもとに土御門帝がおられたなら、親鸞~つまり阿弥陀信仰を守る意志を父・後鳥羽帝から受け継がれて、証空を通じて蓮生に依頼された可能性もあると思います。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/98/db/j/o0336042814469411611.jpg?caw=800)
さらに、大覚寺(茨城県石岡市)の伝承をきっかけに、面白い人物に行き当たりました。
親鸞の有力な弟子24人の第九番に挙げられているのが、なんと後鳥羽帝の皇子だというのです。
親鸞の有力な弟子24人の第九番に挙げられているのが、なんと後鳥羽帝の皇子だというのです。
「大覚寺縁起略記」 によると、後鳥羽院の皇子、正懐親王 が比叡山で出家し、周観大覚 と称して東国を行脚 していた折、板敷山の南麓の当地に草庵を結び、阿弥陀如来を安置して 「大覚 阿弥陀堂」 としたことに始まるとされています。
その後、親鸞聖人が越後国から常陸国に渡られた折、布教の拠点とされた稲田御坊をたずねて門弟の契りを結び、善性房鸞英 と称して親鸞聖人の 布教活動を支えた とされています。
→ 石岡市観光協会 http://www.ishioka-kankou.com/page/page000060.html
その後、親鸞聖人が越後国から常陸国に渡られた折、布教の拠点とされた稲田御坊をたずねて門弟の契りを結び、善性房鸞英 と称して親鸞聖人の 布教活動を支えた とされています。
→ 石岡市観光協会 http://www.ishioka-kankou.com/page/page000060.html
同輩4人を死に追いやり、師と自分を配流に処した後鳥羽帝の子が・・・。
Wikipedia の後鳥羽天皇の稿にある 后妃・皇子女 の一覧には見当たらないのですが、事実だとすれば土御門帝の異母弟。
Wikipedia の後鳥羽天皇の稿にある 后妃・皇子女 の一覧には見当たらないのですが、事実だとすれば土御門帝の異母弟。
もちろん地元では恩讐を超えた美談となっているはずですが、実際に皇子だとすると、親鸞に近づいたのが、はたして偶然なのでしょうか。
善性はのちに親鸞から稲田草庵を受け継いだといいますから(東弘寺;茨城県常総市の伝承)、よほどの信頼関係、あるいは恩義があったはず。
→ http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1235/04/03ibaragi/02jousou/052toukouji.pdf#search=%27%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%8B%9D%E9%87%8D%27
→ http://www.zuikouji01.sakura.ne.jp/monngo/sinnrann/02nennpu/nennpu0730/1235/04/03ibaragi/02jousou/052toukouji.pdf#search=%27%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%8B%9D%E9%87%8D%27
それでも善性はやはり謎の存在であるらしいことが 『親鸞聖人と宗教あれこれ』 というブログサイトに、昨年12月に書かれた 「稲田草庵の継承者? ―― 謎の善性房の人物像を探る」 という記事で紹介されています。
いろいろ調べてみると善性房、あちこちで活躍しているではないか。あの稲田草庵の継承者として、親鸞さんの手紙を預かった信頼厚かったであろう人、その息子は覚信尼さんの絶大なる信頼を得た人として。顕智房、真仏房、性信房らと同様に実在していた人として改めて認識した人物でした。
でも、本当に後鳥羽上皇の子息なのか、草庵の継承者なのか、まだまだ謎の多い人です。
文献に残る善性房でさえ謎が多いのであるから、その他の親鸞さん直弟の24輩、44輩に記される門弟さんも謎が沢山あるはずです。
→ http://syuronoki.blog.jp/archives/1069226503.html
→ http://syuronoki.blog.jp/archives/1069226503.html
これも、扱いに困る伝承です。
後鳥羽帝は、京都にいる間はあまり信仰心の篤い人物のようにはみえません。
文武両道に秀でた、合理的な精神の持ち主だったというイメージです。
鎌倉への接し方からは、政治家としてもなかなかのもの。
ただ、隠岐での文書にみえるように、最期には法然の教え~阿弥陀仏に深く帰依されています。
門徒の皆さんには法話のなかでおなじみの、あの一節 は後鳥羽帝が亡くなる前に記されたお言葉なのです。
長いですが、ご紹介します。
[ 後鳥羽天皇御作 無常講式 ] (読み下し;原文は漢文)
第二段
世こぞって蜉蝣かげろうの如し。朝あしたに死し、夕べに死して別れるものの幾許いくばくぞや。
或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。
或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。
世こぞって蜉蝣かげろうの如し。朝あしたに死し、夕べに死して別れるものの幾許いくばくぞや。
或いは、昨日已に埋みて、墓の下の者に槽涙す。
或いは今夜に送らんと欲して、棺の前に別れを泣く人もあり。
およそはかなきものは人の始中終、幻の如くなる一朝の過ぐる程なり。
三界無常なり。
三界無常なり。
古いにしえよりいまだ萬歳の人身あることいふことを聞かず、 一生過ぎやすし。
今に在ありて誰か百年の形體を保たん。
實まことに、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。
實まことに、我はさき人やさき、今日も知らず明日とも知らず。
おくれ先だつ人、本の滴しずく、末の露つゆよりも繁し。
厚野を指して獨り逝地に墳墓を築き、永く栖家となす。
厚野を指して獨り逝地に墳墓を築き、永く栖家となす。
燒けば灰となり埋めて土となる。
人の成りゆく終りの資すがたなり。
ー略ー
一切の有爲の法は夢幻ゆめまぼろしの泡の影の如し。
ー略ー
一切の有爲の法は夢幻ゆめまぼろしの泡の影の如し。
露の如く電いなびかりの如し、かくの如きの觀をなすべし。
契ちぎりても、なお契るべきは菩薩聖衆の友、憑たのみても、なお憑むべきは 弥陀本誓の助けなり。
凡夫の友は一期ほどなり。
契ちぎりても、なお契るべきは菩薩聖衆の友、憑たのみても、なお憑むべきは 弥陀本誓の助けなり。
凡夫の友は一期ほどなり。
未だ六道の旅には伴ともなわず。
今生もまた富貴の間なり。
貧賤の時、誰か随はんや。今、まのあたりに乱世を見るに、まことに仏より外に誰をか憑むべき。
昔は、清涼紫震の金の扉とぼそに、采女腕を並べて玉の簾を巻く。
今は、民煙みんえん蓬巷ふうこうの葦の軒に、海人あまびとびとと釣を埀れ、僅わずかに語かたらいを成す。
―略―
しかれば則ち、蕭々しょうしょうたる夜の雨 窓を打つ時、皎々こうこうたるの残の灯ともしみ壁を背ける下にして、十二縁の観をなして、生死の無常を悲しむ。
九品の迎えを欣ねがいて、弥陀の名号を唱えよ。
天帝二十五億の人、天女五衰の夕べには皆捨てて去ぬ。転輪聖王の八万四千の後宮、一期の終りには一ひとりも従がわず。
仰ぎ願わくは、観音・勢至二十五菩薩、普賢・文殊四十一地賢聖、臨命終の夕べに、蓮台を捧げて草菴に来り。
一期の生の後、浄土に導きて、玉台にうちに移したまえに。
此の身は万劫煩悩の根たり。
厭て金剛不壞の質すがたとなすべし。
貧賤の時、誰か随はんや。今、まのあたりに乱世を見るに、まことに仏より外に誰をか憑むべき。
昔は、清涼紫震の金の扉とぼそに、采女腕を並べて玉の簾を巻く。
今は、民煙みんえん蓬巷ふうこうの葦の軒に、海人あまびとびとと釣を埀れ、僅わずかに語かたらいを成す。
―略―
しかれば則ち、蕭々しょうしょうたる夜の雨 窓を打つ時、皎々こうこうたるの残の灯ともしみ壁を背ける下にして、十二縁の観をなして、生死の無常を悲しむ。
九品の迎えを欣ねがいて、弥陀の名号を唱えよ。
天帝二十五億の人、天女五衰の夕べには皆捨てて去ぬ。転輪聖王の八万四千の後宮、一期の終りには一ひとりも従がわず。
仰ぎ願わくは、観音・勢至二十五菩薩、普賢・文殊四十一地賢聖、臨命終の夕べに、蓮台を捧げて草菴に来り。
一期の生の後、浄土に導きて、玉台にうちに移したまえに。
此の身は万劫煩悩の根たり。
厭て金剛不壞の質すがたとなすべし。
妻子珍寶および王位、臨命終時には隨わざるものなり。
ただ戒とおよび施と放逸せざると、今世後世に伴侶になる。
この諸の功徳に依て、願はくば命終時において、無量寿仏 無辺功徳の身を見たてまつらん。
ただ戒とおよび施と放逸せざると、今世後世に伴侶になる。
この諸の功徳に依て、願はくば命終時において、無量寿仏 無辺功徳の身を見たてまつらん。
我および余に信ずる者、既に彼の仏を見たてまつりおわりて、
願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。
願くは離垢の眼を得て、安楽国に往生せん。
南無阿彌陀佛
無常式 陰岐法王御筆
正月九日 帝王崩御同月廿日
建長元年七月十三日於雲林院書寫了
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/4d/5a/j/o0687023014469411622.jpg?caw=800)
そう。どうやら蓮如の 「白骨の御文章」 *7 の元ネタ。
しかも弾圧の一因とされた 『六時礼讃』 の御文で締めくくられています。
後鳥羽帝と親鸞の宿命。
探究はまだ続けなくてはならないようです。
が、一旦自己採点してみます。
◎:正解 〇:たぶん正解 △:微妙/調査不十分 ×:たぶん誤り
→仮説1
後鳥羽帝にとって、鈴虫・松虫の出家は別に問題ではなかった → 〇
後鳥羽帝にとって、鈴虫・松虫の出家は別に問題ではなかった → 〇
“寵愛” の女官の出家に対して激怒し、そのまま教団を弾圧というのは、当時の政治情勢などを考慮に入れていない単純すぎる筋書き。
後鳥羽帝という人物のスケールの大きさを考えれば、女官の出家や密通の噂(に対して措置をとらないこと)が攻撃される材料になるのは問題ではあっても、そのこと自体はたいした問題ではなかったと考えられます。
→仮説2
後鳥羽帝は 『新古今集』 編纂に没頭していて、裁判は人任せだった → △
後鳥羽帝は 『新古今集』 編纂に没頭していて、裁判は人任せだった → △
まだ六波羅は設置されていないものの、鎌倉幕府から派遣された京都守護がおかれていて(1205年10月からは安楽坊と同姓の中原季時)、院政とはいえ後鳥羽帝の独断ですべてが決まったと考えるのは無理があるように思います。
“人任せ” は言い過ぎとしても、「よきにはからえ」 と、処分の最終決定はお任せになっていたのではないでしょうか。そうでなければ朝廷(土御門帝政)で議論される必要もなかったはずですから。
→仮説3
後鳥羽院は実は法然ファンで、弟子・親鸞に対しても好意をもっていた → ◎
後鳥羽院は実は法然ファンで、弟子・親鸞に対しても好意をもっていた → ◎
若き後鳥羽帝が法要に参加するなど法然への帰依の痕跡があり、周囲に禁じたりした形跡もありません。
慈円の使者として参内した親鸞に彼の父親のことを話すなど、親近感をもっていた印象です。
枠にとらわれない後鳥羽帝のオープンなお人柄からして、梅原 猛 氏がルターに匹敵すると評した宗教改革者・法然や実践者・親鸞への親近感を強く感じます (後鳥羽帝と順徳帝の御陵が法然にゆかりの深い大原・勝林院の目前にあることは、後世の事情だとしても)。
玉日姫のこともすでにご承知で、だからこそ “スキャンダル”として興福寺や延暦寺から責めたてられたとき、法然-親鸞を救うために弟子のなかで武士の出自をもつ、比較的急進的な4人の処刑によって、ことを済まそうとしたのではないでしょうか。
→仮説4
4人の処刑や法然と親鸞の配流は既成勢力をなだめる妥協策だった → 〇
4人の処刑や法然と親鸞の配流は既成勢力をなだめる妥協策だった → 〇
法難が起こる直前から建設が始まり、実朝暗殺の直後に取り壊された寺・最勝四天王院は後鳥羽帝の命により鎌倉を呪詛するためのものだという噂は当時からささやかれていたようです。たとえ討幕の意志はなくとも、鎌倉幕府との力関係において興福寺や比叡山、熊野などと良好な関係を維持しようとされていたのは確かでしょう。
そんな状況のなかで処刑や配流が後鳥羽帝と尊重がたどり着いた “妥協策” であった可能性は高いと思います。配流と決められながらあっさり許され、やがて京の仏教界のリーダーとなる高弟・証空の例もあります。 (→ ミステリー・6 法然の高弟 証空の謎 参照ください)
処刑されたという4人も、師のため、信仰のため、あるいは自分の一族、そして一族が仰いだ源氏の御曹司のために納得の上で死を受け入れたのではないでしょうか。事実、日野家も中原家も、足利政権から徳川政権を経て現代まで、名家として存続しています。
法然が 住蓮山安楽寺 と名付けた寺で二人の菩提を弔ったというのは、盾となって教えを守ってくれた彼らへの感謝の念からであり、朝廷もそれを理解して建立を許したのではないでしょうか。
そして 結論。
後鳥羽院は法然上人を護り、親鸞聖人を救った。
結果的に、浄土宗及び浄土真宗にとって 大恩人 である → (仮に) 〇
後鳥羽院は法然上人を護り、親鸞聖人を救った。
結果的に、浄土宗及び浄土真宗にとって 大恩人 である → (仮に) 〇
法然、親鸞、さらにのちの日蓮など、弾圧を受けて苦労された、さらには仏の加護によって奇跡的に救われたという物語は、布教の過程で編集・脚色された可能性がありそうです。
といって、その存在や教えの価値が決して低くなるわけではありません。
当時は特権階級のものとなっていた仏教を、真に大乗仏教と呼べるものに転換された、法然。
そして、その生き様がのちに布教の天才・蓮如によって燦然と輝くようになる親鸞。
浄土教、浄土真宗が現在にまで受け継がれるには、弾圧者とされてきた後鳥羽院による (消極的かもしれませんが) 庇護があり、その背景には親鸞の源氏の血統があったことを指摘するものです。
ともあれ、結論に ◎ を付けるにはまだまだ検討・研究が必要だと思います。
引き続き研究課題としたいと思います。
それでも法然・親鸞、そして弟子たちへの処断が、一方的な弾圧ではなかったことだけはご納得いただけたのではないでしょうか。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
***
安楽、住蓮の辞世が清々しくて、後鳥羽帝への憎しみが感じられない。
受け継がれた住蓮院安楽寺を 恨みつらみの物語から解き放ちたい…。
そうおっしゃっていた奥様のお気持ちを受けて、今年1月2日の縁日の企画を 「和解」 の機会としていただきました。
その趣旨を、ここまで記してきました。
ご遺志にお応えできたとはまだ思えませんが、ひとまず締めくくりとさせていただきます。
瞑目 合掌
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/70/29/j/o0480063814469411635.jpg?caw=800)
***
*1 深草派
浄土宗西山深草派(じょうどしゅう せいざんふかくさは)
中京区の誓願寺を総本山とする広義の浄土宗の一派。法然の高弟である西山上人・証空が西山義の教えを広めたことに始まり、浄土宗西山派として知恩院の浄土宗鎮西派に次ぐ浄土宗内での大きな派となっていく。
大正8年(1919年)4月30日、浄土宗西山派がそれぞれの考えの違いから西山三派といわれる 「浄土宗西山光明寺派」、「浄土宗西山禅林寺(永観堂)派」、 「浄土宗西山深草派」 の3つに分裂して存在している。
中京区の誓願寺を総本山とする広義の浄土宗の一派。法然の高弟である西山上人・証空が西山義の教えを広めたことに始まり、浄土宗西山派として知恩院の浄土宗鎮西派に次ぐ浄土宗内での大きな派となっていく。
大正8年(1919年)4月30日、浄土宗西山派がそれぞれの考えの違いから西山三派といわれる 「浄土宗西山光明寺派」、「浄土宗西山禅林寺(永観堂)派」、 「浄土宗西山深草派」 の3つに分裂して存在している。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/7a/41/j/o0235023914469411646.jpg?caw=800)
*2 慈円
『百人一首』 には95番にとられています。
おほけなく うき世の 民に おほふかな
わがたつ杣(そま)に 墨染の袖
前大僧正
わがたつ杣(そま)に 墨染の袖
前大僧正
95番。
歌意は、さすが関白家出身。意欲が充ち溢れています。
「身のほど知らずだが この憂き世に生きる人々を仏法の墨染めの衣で包み込んで救済するのだ。」
「身のほど知らずだが この憂き世に生きる人々を仏法の墨染めの衣で包み込んで救済するのだ。」
彼は重要な当時の記録 『愚管抄』 を残しています。
*3 行空
(ぎょうくう、生没年不詳) 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての浄土宗の僧。
美濃(一説では美作)の人と伝えられる。房名は法本房。
法然の高弟となった後、『一念往生義』 を説き、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。
しかし、1205(元久2)年、興福寺の僧徒から 『興福寺奏状』 をもって専修念仏停止の訴えがあった際、遵西とともに非難の的となり、興福寺側への配慮から法然により破門 された。
この事件は、法然が讃岐に、親鸞が越後に、それぞれ配流された承元の法難の遠因の一つとなった。
→ EWikipedia 行空 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E7%A9%BA
*3 安楽の言動
このあたりのことを梅原 猛氏は次のように想像されている:
『四十八巻伝』 によれば、安楽は第三章を執筆していたときに、自分はこういう筆作の能力がなかったら、この 『選択集』 撰修という光栄ある座にはべることはないであろうといったという。法然は、その言葉に安楽の高慢な心をみて安楽を退け、筆者を真観にかえた。安楽は、自分は家の外記という職業からして、ものを書く才能をもっている、このような才能がなかったら、『選択集』 撰修という歴史的な座にはべることができようかといったのである。それは、安楽としてきわめてあたり前の発言のように思われるが、それが 法然の気に障った のであろう。安楽は、法然の教えを広めるのにたいへん力があった。 「六時礼讃」 のたくみなうたい手であり、都の士女の人気者であったのであろう。安楽には、ひじょうに調子に乗りがちな、いささか軽佻浮薄な性があったと思われるが、このときも安楽ははしゃぎすぎて、その役を真観にかえられたのかもしれない。
『法然の哀しみ (上)』 小学館・刊 p.395-396
法然然がそんなお調子者をそばに置き、指名しただろうか。名家出身の彼の才能が突出することで非難の的になることを懸念しての交替ではなかったか。
*4 家隆
浄土宗西山深草派 宗学会 「親鸞の流罪に縁座した歌人・藤原家隆」吉良 潤 より
ー略ー 筆者らは、『親鸞は源頼朝の甥――親鸞先妻・玉日実在説――』(西山深草著、平成23年1月25日、白馬社)において、下の仮説を提出しているからである。
1、猫間中納言(ねこまのちゅうなごん)・藤原光隆(ふじわらのみつたか)と藤原信通(ふじわらののぶみち)の女(むすめ)の間に女房二位が生まれた。
2、この女房二位と九条兼実の間に、任子 (にんし)と玉日(たまひ)が生まれた。
3、すなわち後鳥羽(天皇)上皇と親鸞は、それぞれ兼実と女房二位との間に生まれた姉と妹と結婚したから姻戚関係にある。
この女房二位の母は九条兼実から九条尼上と呼ばれた。(多賀宗隼『玉葉索引』吉川弘文館昭和19年、解説456ページ)
また、猫間中納言・藤原光隆と大皇太后亮(だいこうたいごうのすけ)・藤原実兼(ふじわらのさねかね)の女(むすめ)の間に生まれた子息が、後に歌人で従二位宮内卿となった藤原家隆である(国史大系『公卿補任』第2篇20ページ)。
ー略ー すなわち歌人藤原家隆の異母姉妹が「女房二位」であり、「女房二位」と九条兼実の間に生まれたのが任子と玉日であった。つまり任子と玉日は家隆の姪である。したがって藤原家隆と後鳥羽上皇とは九条兼実の二人の娘(任子と玉日)を介して姻戚関係にあった。
図:『親鸞は源頼朝の甥』 p.466![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/d4/0d/j/o0480058314469411656.jpg?caw=800)
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/d4/0d/j/o0480058314469411656.jpg?caw=800)
*5 偽装工作
特に法然の配流先での記録が、浄土宗側からのものしかないのだそうです。
「法然配流の疑義」中野正明・著 (「印度學佛教學研究」第四十雀 第一號準成三年十二月)という論文から引きます:
ー略ー 昭和五十四年発見された信楽 『玉桂寺文書』 の念仏結縁交名のなかの源智自筆箇所に、源氏三代将軍と後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳天皇・右大臣徳大寺公継らの名 がある。これは源智にとっては弾圧を加えた側の為政者達の名である。近くには源智とその一族と思われる者の名が連なり、そして 九条兼実 と 天台座主慈円 の名も載っている。ー略ー 法然は叡山黒谷の叡空より円頓戒を授かり、自らは 終生を持戒の僧として天台僧の立場を貫いたことは今更述べるまでもない。
そして、『三長記』 『明月記』 によれば建久六年には 後鳥羽天皇、正治二年には中宮の修明門院重子らの戒師となっている ことが確認できる。
ところが、配流の事実を詳細に語る確かな史料は皆無であり、当時の日記についていえば 『三長記』 が元久年間における度重なる興福寺による専修念仏停止の訴えを記すものの、丁度建永元年九月で記事が終了しているのをはじめ、『玉葉』 においても正治二年十二月までしか伝わらない。『明月記』 には建永二年正月二十四日条にを専修念仏停止宣下の記事があり、同年二月九日条に「近日只一向専修之沙汰、被二搦取一被二拷問一云々、非二筆端之所丁及、」 とあるのは、『四十八巻伝』 第三三巻の記述を裏付けるものであるが、その後の 『明月記』 の豊富な記事のなかにも法然配流を証するものは見出し得ない。法然配流を詳記するものは各種の法然伝のみである。
天台座主に四回就いた青蓮院慈円は 『愚管抄』 において、摂関政治の立場から独自の道理ともいうべき歴史観を展開しているが、そのなかに法然の建永の法難をとりあげて 「終二安楽住蓮頸キラレニケリ、法然上人ナカシテ京ノ中ニアルマシ輪テヲハレニケリ、カ丶ル事モカヤウニ御沙汰ノアルニ、スコシカ・リテヒカヘラル丶トコソミユレ」 と記している。そして、住蓮・安楽の六時礼讃に対する 院の女房 と仁和寺の 御室の母 なる者らの信心の模様について、とくに夜宿にまで及んだとの風紀問題を指摘して述べている。
慈円は法然の配流についてその 配流地を記していない ことも指摘できるが、当時の情勢を配慮して洛中から出なければならなくなったことを強調しているのである。
つぎに親鶯の著 『教行信証』 の後序の部分、には ー略ー 法然とその弟子らは 諸方の辺州において五年間を過ごした と記しているのである。これは後述の諸本による勅免宣旨の年時の相違についてと関係して重要な問題点であるが、ここにも配所の記事は見られない。
ー略ー
『琳阿本』 『古徳伝』 『隆寛本』 は 配流期間二年六ヵ月、勝尾寺滞在期間二年三ヵ月、『四巻伝』 『九巻伝』 『十六門記』 は配流期間六ヵ月、勝尾寺滞在期間四年三ヵ月、『四十八巻伝』 は 配流期間九ヵ月半、勝尾寺滞在期間三年二カ月 というようにである。各伝記によってこのように何種類かの記述に分かれる点に疑問を感ずる。ー略ー勅免宣旨が承元元年八月である場合によると、配流期間は六ヵ月ということになるが、実は配所が土佐国から讃岐国に変えられ、経の島で村里男女老少の粘縁を受け、播磨国高砂の浦で老夫婦に念仏往生の道を説き、同国室の津では遊女教化を施こし、三月二十六日讃岐国塩飽に寄宿、小松庄生福寺に到着等と順々に掲げ、その後には八月二十四日付津戸三郎為守宛返書を載せ、在国間の念仏弘通の様子を述べているものの、そのほかには配流地での生活の状態を記すことはなく不自然に思えてならない。
ー略ー
とくに配流事件の記述については、その基礎をなす 『四巻伝』 自体の史料的性格に問題が存し、初期の時点ではもっと原初的な記述であったと想定されるならば、これは根本的に疑わしいと言わざるをえない。 今後は 『愚管抄』 『教行信証』 ならびに初期法然伝等の記述に信を置いた理解がなされるべきである。安易な推論は慎まなければならないが、法然はあるいは当時の社会情勢を配慮して京都から出され、五年間程を摂津国勝尾寺か どこかで隠棲するを余儀なくされた ということなのかもしれない。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190617/17/yamanokami22/d7/5c/j/o0388033614469411664.jpg?caw=800)
勝尾寺には創建以来、浄土信仰の伝統があった上、清和帝ゆかりの寺で、源 頼朝の命によって梶原景時と熊谷直実が戦乱で焼失した堂宇の再建にあたったという、皇室と源氏に縁の深い寺。
すでに名僧として知られた法然は滞在中、法要をおこなったり法衣や経典を寄贈したという伝承がある。
すでに名僧として知られた法然は滞在中、法要をおこなったり法衣や経典を寄贈したという伝承がある。
京都との往来も淀川の水路を経るか、亀岡から峠越えで一日かからない(右の行程で約50km)位置にある。