北条泰時の師・明恵上人の寺~高山寺
平安から鎌倉へと移り変わる頃、いわゆる鎌倉仏教という“新興宗教”の教祖たちが続々と登場します。
()内の年齢は1196年生まれの土御門帝との差です。
法然 (1133-1212;+63才)
栄西 (1141-1215;+55才)
親鸞 (1173-1263;+23才)
法然の高弟には、あの 証空 (1177-1247;+19才) もいます。
1192年に鎌倉幕府が開かれて以降に生まれたのが:
道元 (1200-1253;ー4才)
日蓮 (1222-1282;-26才)
一遍 (1239-1289;-43才)
ちなみに親鸞より7歳年下が後鳥羽帝 (1180-1239年;ー16才)。
これらのニューリーダーの登場に呼応して、既成勢力側には2人の“中興の祖”が生まれています。
そのひとりがこの番外編の主役、華厳宗の明恵 (みょうえ;1173-1232;+23才)。
もう一人は真言宗の覚鑁 (かくばん;1095-1144;+101才)。
覚鑁が高野山内で抵抗勢力から命を狙われたり、没後に拠点だった“新義真言宗”根来寺が秀吉に壊滅させられるなどの激しい政治闘争を繰り広げたのとは対照的に、明恵は政治的なことに関わるのを避けました。
また同い年の親鸞とも対照的に、戒律を守る生き方を貫きながら実在した釈尊の弟子という立場を堅持。
教団の発展などにはまるで関心をもたなかったこともあり、歴史的には忘れられがちです。
この明恵を師と仰いだのが三代執権・北条泰時です。
京都市内の桜が散り始めた頃、そんな明恵の寺、洛北・高尾のさらに奥、栂ノ尾高山寺へ向かいました。
高山寺 (こうざんじ、こうさんじ)
京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。
栂尾は京都市街北西の山中に位置する。
高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。
創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基は、鎌倉時代の明恵である。
もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。
「鳥獣人物戯画」 をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。
境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として 世界遺産 に登録されている。
JR京都駅からここ 「栂ノ尾」行の路線バスが走ってきます。
京都はここまで、という感じ。
駐車場に車を停めて、いきなり急な坂を登ります。
駐車場から少し離れた“表参道”にはちょっとモダンな石灯篭。
境内の案内図を見ると、山中にしては広い・・・。
高山寺の公式サイトの記述を引けば:
高山寺は京都市右京区栂尾にある古刹である。
創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元(1206)年 明恵上人が 後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。
神護寺のある高雄から白雲橋を越え、周山街道を道なりに進むと表参道に入る。
神護寺のある高雄から白雲橋を越え、周山街道を道なりに進むと表参道に入る。
石段上の左手に「栂尾山 高山寺」の石碑(富岡鉄斎筆)がある。
やがて道は平坦になり、かつて大門があったと伝える場所に今は石灯籠が立つ。木漏れ日のもと正方形の石敷きが17枚連なる意匠が美しい。
桜が終わり、新緑が萌えようとしている季節で、確かに歩いていて気持ちのいい参道です。
まもなく見えるのが、石水院。
桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通り庇。
一重入母屋造(いりもやづくり)、妻入、向拝(ごはい)付、葺。
五所堂とも呼ばれる。
創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。安貞2(1228)年の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。寛永14(1637)年の古図では、春日・住吉を祀る内陣と五重棚を持つ顕経蔵・密経蔵とで構成される経蔵兼社殿となっている。
明治22(1889)年に現在地へ移築され、住宅様式に改変された。
国宝指定を受けています。
確かに民家の玄関のような入り口で拝観料をお支払いし、廊下を渡って別棟の石水院へ。
渡り廊下から谷をはさんだ東側の山のきれいなシルエット。
テラスのようなスペースがあります。
廂(ひさし)の間と呼ばれるそうです。
オープンエアの、実に気持ちのいい空間。
石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。
石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。
欄間に富岡鉄斎筆 「石水院」 の横額がかかる。鉄斎は明治期の住職 土宜法龍 と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだ。
落板敷の中央に、今は小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。華厳経(けごんきょう)にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。
吊り上げの蔀戸(しとみど)、菱格子戸、本蟇股(かえるまた)によって、内外の境界はあいまいにされ、深い軒が生む翳りの先に光があふれる。
善財童子(ぜんざいどうじ、Sudhanakumâra)
仏教の童子の一人。
『華厳経入法界品』に於いて、インドの長者の子に生まれたが、ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として描かれている。
善智識の中には比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思われる女性、童男、童女も含まれている。
仏教の童子の一人。
『華厳経入法界品』に於いて、インドの長者の子に生まれたが、ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の理想者として描かれている。
善智識の中には比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思われる女性、童男、童女も含まれている。
右の像は奈良・安倍文殊院の国宝 「善財童子立像」 です。
鎌倉時代の快慶によるもので、先導している文殊菩薩を振り返っているお姿だそうです。
ひたすら仏陀その人を慕い焦がれた明恵上人のお姿が重なります。
そして南向きの座敷に入ると、床に掲げられていました。
国宝の「明恵上人樹上坐禅像」。
想像よりも小さな画です。
国宝の「明恵上人樹上坐禅像」。
想像よりも小さな画です。
明恵は貞応元(1222)年に栂尾へ還住し、最晩年を過ごす。
高山寺の後山、楞伽山には、上人坐禅の遺跡・華宮殿〈けきゅうでん〉、羅婆坊〈らばぼう〉、縄床樹〈じょうしょうじゅ〉などが今も残る。
華宮殿の西に二股に分かれた一株の松があった。縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。図上の賛によれば、この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。
明恵の近侍、恵日坊成忍(じょうにん)の筆といわれ、明恵の人となりをよく伝える。
背景には松、岩、藤、小鳥、栗鼠(りす)などが配される。
肖像画にしては人物が小さく、人と自然とが拮抗しつつ調和している。画面構成が羅漢図に似通い、宋画の影響が見られるという指摘がある。
明恵上人、その人について:
明恵房高弁は承安3(1173)年、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。
父は 平 重国という武士 であり、母は紀州の豪族 湯浅家の娘であった。
幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。
明恵は、法然の唱えた 「専修念仏」 の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」 とは、仏法が衰えた 「末法」 の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。
ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。
明恵は建永元(1206)年、34歳の時に 後鳥羽上皇 から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった 「日出先照高山之寺」 の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。
「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。
高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。
1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。
さて、この明恵妙画上人が土御門ミステリーとどう関わるのかというと、承久の乱のときに栂ノ尾に逃げ込んだ後鳥羽帝側の人々を匿ったとがで六波羅に引き立てられて以来、幕府の三代執権となる 北条泰時 の終生の師となる人物なのです。
開山堂に納められているお姿は、あくまでも穏やかです。
若い頃に何度も仏の国・天竺(インド)への渡航を企てたり、求道心から「世俗と離れる」ために自分の右耳を切り落とすという激しい行為をした人には見えません。
続きます。
***
*補
さらに高山寺のサイトでの明恵上人のご紹介に、上人の教学について解説があります。
さらに高山寺のサイトでの明恵上人のご紹介に、上人の教学について解説があります。
京都大学の 大槻 信 准教授による文から wikipedia に重複しない部分を抜粋させていただきます。
明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。
明恵といえば、厳しい修学修行、釈迦への思慕、自然との調和、人間味あふれる逸話、夢幻に彩られた伝説、書き留められた夢などが想起される。
残された和歌も自在な境地を伝える。
あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月 (明恵上人歌集)
実践的な修行を重んじ、中でも 仏光観 と 光明真言 とが重視される。
明恵の宗教思想を理解するため、入寂時を見てみよう。
場所は禅堂院、その持仏堂には五秘密曼荼羅(ごひみつまんだら)、華厳善財善知識図(けごんぜんざいぜんちしきず;右;奈良東大寺・蔵)、華厳海会諸聖衆図(けごんかいえしょしょうじゅうず)が飾られていた。
臨終のしつらえとして明恵は弥勒菩薩像を置き、五聖(ごしょう)曼荼羅図をかけ、光明真言、文殊五字真言を唱える。
華厳善財善知識図、華厳海会諸聖衆図、五聖曼荼羅図は華厳・仏光観に関わり、五秘密曼荼羅、光明真言、五字真言は密教に関わる。臨終の場はまさに厳密を具現化したものであった。
明恵はまた、釈迦、仏眼仏母(ぶつげんぶつも)をはじめ、文殊、弥勒、春日明神などに深い信仰を寄せている。
高山寺の宝物が多岐にわたることは、明恵の信仰の多様性に起因するといえよう。
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