蓮生と証空の寺~三鈷寺

第4話の“もう一人の蓮生”こと宇都宮頼綱と、その師であり第6話の西山上人・証空 さんとが並んで眠るという 三鈷寺 へ行ってみました。

京都市内をまっすぐ西へ、亀岡方面へ向かいます。
国道9号線とは 国道1号線から烏丸五条で変わる 五条通り です。

沓掛の交差点から南下。
“くつかけ”とは美男で知られる平安時代の在原業平が名付けたという地名。
『伊勢物語』の主人公と目される彼が隠棲し、業平寺とも呼ばれる十輪寺もある、静かな洛外・・・
と思いきや、新しい道に整然とした住宅地に。
1970年代に開発された洛西ニュータウンでした。

写真は西京区役所のサイトからいただきました。

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洛西(らくさい)ニュータウン
京都市西京区南西部の大原野地区 (旧乙訓郡大原野村) 北東部と大枝地区 (旧乙訓郡大枝村) 南部にまたがる地域にあるニュータウンである。
京都市南西部にある西山断層崖の麓で小畑川が南に向かって流れる 標高約70m~130m の西山丘陵と呼ばれる丘陵地に立地している。
開発前は、西山竹林と呼ばれる竹林が広がり、筍(たけのこ)や富有柿等を産出する農山村地域であった。
また 「福西古墳群」 と呼ばれる 帆立貝式古墳を含む24基の古墳 が集まった群集墳が残り、小畑川の河岸段丘上には完成度の高いチャート製のナイフ形石器や押型文土器が埋設されていた 「大枝遺跡」 などの考古学上の遺跡が多数存在する場所でもあった。
こうした考古学上の史跡は、開発前に発掘調査が行われて資料が残されたものの、古墳は2基以外は発掘調査後に破壊されるなど 大半の遺跡が破壊 されることになった。



湿地帯だった京都盆地のなかではおそらく縄文期あたりから人々が暮らした、住みやすいエリアだったのでしょう。

上の地図に「物集女(もずめ)街道」というのがありますが、河内の百舌鳥(もず)に勢力をもっていた一族がこのあたりに移り住んだから、だそうです。巨大な古墳を造った勢力ですね。
この街道は山陰街道と西国街道を (都を避けて) つなぐバイパスにもなっていた重要ルートです。

ニュータウンは1972(昭和47)年着工直後にオイルショックの影響を受けたため、開発規模は縮小されました。
そのためにいまも竹林や農地が残っています。
しばらく走ると鄙びた洛外の農村風景になるのです。
もとの“大原野”らしい、いい感じ。

それにしても途中、「善峰寺」 という標識はありますが、 「三鈷寺」 が出てきません。
ナビを信じて進むと、料理屋さんの門前にこんな彫刻もあったりして、雰囲気が盛り上がってきます。



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神霊写真か!と思いましたが、レンズのヨゴレ。
申し訳ありません。
 
けっこう急な坂を登るうちに 「三鈷寺」 への登り口標識発見!
でも、近くのバスが停まる小さな駐車場らしきスペースにおられた誘導のおじさんは 「紅葉シーズンは全面駐車禁止」 だとおっしゃいます。
しかたなく先に進むとやがて [駐車場] の表示と巨大な鉄筋コンクリートの建物…。「善峰寺」 と。
ここに停めるしかないようです。

「三鈷寺へ行きたいんですが」 と門の手前のお土産屋さんで尋ねると、中から行けるとのこと。
とりあえず入ってみると、なかなかいい感じの門があったりして。

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なんと西国札所
どうりで立派な駐車場だと思ったら・・・。
 
巨大な山門に驚かされます。

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善峯寺 (よしみねでら)
京都市西京区大原野にある寺院。
山号は 西山
善峰観音宗 (天台宗系 単立)。
本尊:十一面千手観世音菩薩2体
西国三十三所20番
洛西観音霊場 第1番
多宝塔、絹本著色大元帥明王像(重要文化財)

寺に伝わる 『善峯寺縁起絵巻』 (江戸時代) 等によれば、長元2(1029)年、源信の弟子 にあたる源算が創建したという。その後、後一条天皇から 「良峯寺」 の寺号を賜った。
鎌倉時代初期には 慈円 が住したことがあり、このころ 後鳥羽上皇 直筆の寺額を賜ったことによって寺号が善峯寺と改められた。
青蓮院 から多くの法親王が入山したため 「西山門跡」 と呼ばれた。
応仁の乱に巻き込まれて伽藍が消失したのち、江戸時代になってから桂昌院の寄進によって再興された。

境内は京都市域の西南端近く、釈迦岳の支峰の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が建つ。
バス停留所から山道を数分登ったところに山門が東向きに建ち、石段を上った正面に観音堂(本堂)が建つ。
山門、観音堂は元禄5(1692)年、山内最古の建物である多宝塔は元和7(1621)年の建立。
他の諸堂宇も大部分は江戸時代、桂昌院 の援助で整備されたものである。
観音堂の左手(南)には寺宝館 文殊堂が建つ。
観音堂右手の石段を上った一画には 鐘楼、護摩堂、経堂、多宝塔(重要文化財)、開山堂、遊龍の松 (天然記念物)、桂昌院廟、十三仏堂などがある。
そこからさらに上ったところに釈迦堂、阿弥陀堂があり、境内のもっとも奥には薬師堂(奥の院)、青蓮院宮廟などがある。

青蓮院宮廟
境内のもっとも奥に位置し、覚快法親王(鳥羽天皇 皇子)、道覚法親王 (後鳥羽天皇 皇子)、慈道法親王(亀山天皇 皇子)、尊円法親王(伏見天皇 皇子)、尊道法親王(後伏見天皇 皇子) らの墓がある。
墓地は宮内庁が管理している。

おお、後鳥羽帝のご子息、土御門帝の弟のひとりが。

注連縄は、神仏混淆の密教寺院ならでは。

本堂の前の寺紋。
あまり見ない、珍しいものです。

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「繋ぎ九つ目結」というもので、このお寺のスポンサーとなった桂昌院の実家、本条家の家紋のようです。彼女は京都出身、徳川五代将軍綱吉のお母さまですね。

ちょうど紅葉が見ごろでした。
今年は11月に入っても暖かい日が続き、冷えたかと思うとまた気温が上がって、カエデやイチョウたちが紅葉するタイミングに戸惑っています。
そんななか、全山・・・とはいきませんが、何本かみごとな紅葉を楽しめました。

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遊龍の松 と名付けられた、横に育てられた松。

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庭師さんの職人技なのでしょう。

本堂の横には弘法大師をまつる大師堂。
定期的にあった、“お大師信仰”の名残りだということです。

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善峯寺の隆盛時には三尾に多くの伽藍が建立され、南尾の法華院、中尾の蓮華寿院、北尾の往生院を中心に 52坊 ありました。
現在の観音堂付近が南尾法華院で、薬師堂付近が中尾蓮華寿院です。
現在の北尾は 三鈷寺 の境内地で、往生院旧跡は 証空上人 ご聖跡として 浄土宗 西山三派 の信仰地となっています。
応仁の乱により大半のお堂が焼失して、江戸時代には10近くの伽藍と7坊が復興され、明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されます。
現在は境内地 3万坪 にある20近くの堂塔伽藍と所有地 36万坪 が受け継がれています。
→ 公式サイト 「善峰寺」 http://www.yoshiminedera.com/

法然上人を浄土宗の宗祖とする浄土宗のうち、西山三派というのには、永観堂こと禅林寺の「禅林寺派」、誓願寺の「西山深草派」、ここ長岡の光明寺の「西山浄土宗」に、いずれも証空上人のお弟子さんが分かれたものです。
ちょっとややこしくなってきました。西山三山というのはまた別ですね。
天台宗に残っています。

法然上人の伝記をみると、ご自身は出身の比叡山とは友好的な関係を維持されていたようです。
その弟子の証空上人ご自身も。
過激派・親鸞が登場してから、彼の浄土真宗と天台宗は決別するようですが。

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サイトの写真を見れば、桜の頃にもまた来たいと思います。

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なんといっても、この眺望。
京都盆地全域を見渡せます。

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みとれていて本来の目的を忘れそうでした。

三鈷寺

善峰寺さんの北の端に出口がありますが、鉄の回転扉!
戻れるかどうかという不安もかき消して、ともあれ出てみます。

ほんとうに、すぐお隣りです。


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やっぱり立派な注連縄。
密教寺院ですね。

それにしても、洛西観音霊場、善峰寺が1番で、隣りなのに5番。
善峰寺を通らないと駐車場もない立地。
それぞれ“本山” どうし、いろいろあるのでしょう。

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提灯に描かれているのは、お! 菊花紋です・・・。

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見せるでもなく、隠すでもなく…。

多くの参拝者でにぎわう善峰寺さんとはまったく違う空気。
人気(ひとけ)のない境内に、入ってみます。

・・・長くなりそうなので、後半に続けます。