土御門ミステリー
土御門上皇をめぐる10の謎
ミステリー・5 定家と 「百人一首」 の謎


百人一首にまつわる 「ミステリー・5」は、これだけでじゅうぶんに1冊の本、1本の映画になってもいいボリュームとおもしろさ。
こういうことを “知的興奮” というのか~と、私が10年以上前にハマッた話題。
当時は土御門上皇のことは思いもせず・・・。

ここで全容はとてもご紹介できず、その要点だけですが。

何人かの研究者がそれぞれの魅力的な説を打ち出されています。
そして、そんな“諸説”をまとめて紹介した本を 2013年に、かの関 裕二 さんが出しておられます。

イメージ 1

『百人一首に隠された藤原定家の暗号』
関 裕二・著
株式会社廣済堂出版・刊 (2013年1月4日)

とりあえずこの1冊をお読みいただければ、当時の歴史的な背景も理解しやすいと思います。
ついでに “中臣鎌足” 時代にまでさかのぼって藤原家のキャラクターを解説されているので、古事記の時代についての知識としても役立ちます。

助けになる図がいくつかあります。
たとえば~
イメージ 2


源 実朝 (さねとも) は頼朝の四男で三代征夷大将軍
後鳥羽帝や定家とも交流があり、和歌を好むなどその“貴族化”を嫌った武士勢力に暗殺されたといわれています。
鎌倉幕府といえば源氏というイメージでしたが、彼で鎌倉での源氏の血統は途絶え、執権・北条一族が仕切っていくことに。

それはともかく、大歌人・藤原定家は高いプライドから世渡りべたで、うだつのあがらない下級貴族でした。
宮中には昇れず、九条家*1 に仕える身だった定家の和歌の才能を見出し、取り立てたのは、自身が歌の才能と情熱をもっていた 後鳥羽帝 だったのです。

このとき二人の歌人は出会つた。そして、すでに卓越した技法を身につけていた初老の男は若いパトロンの嗜好によつてそれをいよいよ磨き、やうやく和歌のおもしろさを解しはじめた青年は自分の趣味にかなつた藝術家に触発されて見る見るうちに腕を上げてゆくことになる。
(かなは原書のまま)
『後鳥羽院』 (p.196) 丸谷才一・著

後鳥羽帝による承久の乱が起こった頃、定家は蟄居中でした。

ともに独自の歌論を持してゆずらない二人、しかも一方は現世的に恵まれない、ひがみっぽく、意地っぱりな中流貴族、他方は天衣無縫で専制的な帝王という間柄。このもつれがやがて1220(承久2)年の内裏歌合における破局へと発展する。
『百人一首の秘密』 (p.174) 林 直道・著

内裏歌合(だいりうたあわせ) での“破局”というのは、気の乗らない定家がしぶしぶ詠んだ歌が後鳥羽帝を激怒させ、自宅謹慎の身となったという事件*2。

承久の乱は翌年、その謹慎中に起こります。
そして定家は、ともに歌の指南をもした恩人・後鳥羽帝、その子の順徳帝が配流される際に知らん顔を決め込みます。

多くのライバルたちが失脚したり処刑されたりしたことも幸いして、定家も息子の為家 (ためいえ)も、どんどん出世してゆき、それに伴って経済力もつけてゆきます。
71歳にしてついに権中納言にまでなります。

そんな人生を送った定家が晩年に編んだ歌集・・・。

藤原定家が出世し、財を貯め込めばため込むほど、後鳥羽上皇に対する後ろめたさは募るばかりであったろう。だからこそ、後鳥羽院の怨念だけは、何とか払いのけたいと願い、貴族らしく、貴族のプライドを賭けて、『百人一首』 という小道具を使って、降りかかる火の粉を振り払ったのではあるまいか。
同書 p.243-245

『百人一首』 の百首目は佐渡へ流された 順徳帝 の歌です。

 百敷や ふるき軒端の しのぶにも なをあまりある むかし成けり

現代語訳: 「永遠に続くと思われた貴族の栄華も 今は昔。かつて栄えた内裏の屋根にもノキシノブがぶら下がっているくらいだ。醍醐・村上時代の栄華を偲んでも、偲びきれない思いがする 遙かな遙かな 昔なのだよ」


その前、九十九首目には 後鳥羽帝

 人もおし 人も恨めし あぢきなく よを思ふゆへに 物思ふ身は

現代語訳: 「人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には」

武士が勢力を強めていくのに対して、天皇の権威が、その実権とともに堕ちていく時代を嘆いています。

その2つ前、九十七番目には定家自身の歌が置かれています。

 こぬ人を まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの 身もこがれつつ

イメージ 9
*図:小倉百人一首殿堂 時雨殿


現代語訳: 「松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想って、恋い焦がれているのです」

恋の歌とされていますが、都への帰還を強く願っている二人の上皇に対して送った、待ち望んでいますよ、というメッセージとして読むことができるというのが、“秘密” を解いた方々の共通した見方。

限られた言葉でつくる和歌では、ひとつ一つの言葉に複数の意味が掛けられていることがあります。
上の定家の歌の 「まつほ(松帆)」 は “待つ” を掛けるように。

『百人一首』 の構成とその意図について、興味をお持ちになったら、下にご紹介する著者の本をお読みいただくとして、その趣旨は後鳥羽帝と順徳帝の恨みを鎮めるのを目的としていることは、諸説の一致するところ。

定家が単なる言語遊戯のために、幕府を憚るような秘密を隠した撰歌集を、弐冊までも編んだとは考えられない。
織田正吉氏は、定家が後鳥羽院と式子内親王を思う心を匿すため、鎮魂の願い をこめて撰んだ百首の色紙を、山荘の一室に貼りめぐらせ、心の平安を求めよとしたのが、世にいう 『百人一首』 である、とされている。また、林直道氏は、『新勅撰和歌集』 の後鳥羽院歌等を削除された定家が、武家権力への嫌忌と、後鳥羽院の生霊の 祟りを怖れる心 から、院の哀情と鎮魂のために織り上げた歌織物が 『百人一首』 であり、その合法的改訂版が 『百人秀歌』 である、とされている。
『百首有情』p.162

この著者、西川芳治氏は、少し違った見方をされていて、「私は両書を、定家が後鳥羽院と順徳院に宛てた、あるいは解読されることを願う目的で編んだ歌集だと考える。ー中略ー 後鳥羽院の長文にわたる手きびしい非難に対して、定家が秀歌撰を装いながら、言語遊戯の謎をもって 自身の心情 を告げ、院に答えようとした一対の歌集だろう」  といいます。

『百人秀歌』は、『百人一首』と多くの歌を共有する、ほぼ同時代に編まれたとされる百一首でなる(やはり謎の)歌集です。
それぞれの読み解き方や定家の意図の推察についてはそれぞれの本*3 を読んでください。
和歌の奥の深さに圧倒され、今も年頭に皇室の皆さんがそれぞれの歌を詠まれることの意義を再認識します。


いずれの説にせよ、ここで私が挙げる謎は、ただひとつ。

『百人一首』 が 鎮魂の歌集 なら、なぜ土御門帝の歌が採られていないのでしょう

鎌倉幕府へ反旗を翻した後鳥羽帝、それに従った順徳帝とは違って、土御門帝は争いには反対していたといわれています。その姿勢が嫌われて順徳帝への譲位を強いられたとされるほど。

であればなお、3上皇のうちで一人だけ鎌倉方に襲われた、理不尽
都から離れた配流地で、妻や子どもたちにも会えずに不便に耐えながら暗殺されたのなら、まっさきに鎮魂の対象になるはずでしょう。


ちなみに土御門帝も定家から歌の手ほどきを受けたとされ、ご自身の歌集もあります。
決して歌が下手だから選ばれなかった訳ではありません。
『新三十六歌仙』 と題された歌集には後鳥羽帝、順徳帝と並んで同じ10首が選ばれるなど、ほかの歌集に収録されている歌も多くあります。

なかで紹介されている一首に:

百首歌よませ給うけるに、懐旧の心を

 秋の色を おくりむかへて 雲のうへに
         なれにし月も 物忘れすな      (続後撰1203)

【通釈】
秋の美しい光を幾度も送り迎えて、雲の上に馴染んだ月よ、おまえも昔のことを忘れないでくれ。
【補記】
建保四年の百首歌。「秋の色」 は漢語 「秋色」 に由来し、もとは 「秋の景色」 の意になるが、ここでは明月の美しい光を言っている。
「雲のうへ」 は宮廷を暗示し、内裏から眺め馴れた月に対して、「おまえとともに幾多の喜び悲しみを味わってきた。そんな思いを、どうかおまえも忘れないでくれ」と訴えた歌。
四国遷幸の五年ほど前の作なのだが、その後の運命を予告しているかのようだ。
流された帝王たちの歌を多く採った 藤原為家 撰 『続後撰集』、巻十八雑下の巻頭 に置かれている

和歌のことはよく知りませんが、なかなかのもの、なのでしょう。


定家やその親族の多くは宮廷の中心にいましたし、配流先と京都の間にはけっこう人や便りの往来がありました (歌集の編集作業や、都への帰還運動などもなされています)。

さらに定家は まだ切り継ぎ(編集)中の 『新古今和歌集』 を書き写したものを源 実朝 に密かに献上するなど、鎌倉幕府側とは積極的に親交を深めています。
北条家とも親族である関東きっての豪族・宇都宮頼綱の娘 を嫡男・為家の妻に迎えたほどです。

宇都宮頼綱は、豪富と権勢をあわせ持っているだけではなく、その妻は北条時政の娘であり、従って為家の妻となった娘は時政の孫ということになる。かくて、源家三代がわずか三十年余で滅びてしまい、爾後は鎌倉幕府とはいうものの、実体としては、足利幕府あるいは徳川幕府という言い方にならうとすれば、北条幕府と言うべきものの中枢 に、しっかりとくさびを打ち込んだかたちになる。まったく大したものである。
堀田善衞 『定家明月記私抄 続篇』 p.112

宇都宮・・・。
そう、ミステリー・4で、土御門帝との関係を探った、あの 蓮生
定家を和歌の師匠としています。

もしこの稿から読み始められたのなら、その4 もごらんください。

実は宇都宮家の祖は、定家と同じ 藤原北家 不比等の次男・房前を祖とする家系) とされているのです。
そんな関係もまた、定家、蓮生ともに京都・嵯峨野*4 に山荘を構えて交流を深める一因かもしれません。


ちょっとひと息つきましょう。
定家の嵯峨の山荘 「時雨亭」 の跡;比定地とされる厭離庵(えんりあん)*5。
ふだんは公開されていませんが、秋の紅葉が有名で、その時期にはお庭を拝見できます。

イメージ 5

そこで私の好きなインド音楽のコンサートがあるというので駆けつけました。
セレンディピティという達人のトリオ。

イメージ 10

床の間に掛かっていた額。
“厭離穢土(おんりえど)” は浄土信仰のフレーズですね。
その日記『明月記』に 「紅旗征戎非吾事(紅旗征戎 吾が事に非ず ;大義名分をもった戦争であろうと所詮野蛮なことで、芸術を職業とする身の自分には関係のないことだ)と歳月を経て2度にわたって書いている定家らしい銘です。
穢土で、浄土のような音楽を聴けるのも一興でした。

イメージ 6

床には定家の肖像。

イメージ 7


お庭にはひっそりと 「定家塚」。

イメージ 12
「厭離庵」 パンフレットより

コンサートのあとは、昇る月を眺めるのに好適という離れのお茶室でお茶会。
明治末期から尼寺になっていた厭離庵に平成18年から入っておられる僧・玄果さんのお手前で、おいしく頂戴しました。

イメージ 8

この茶席 「時雨亭」 は大正12年に裏千家の数寄屋大工さんが建てられたそうです。
本堂はジェーン台風で倒壊したものを、昭和28年に再建されたとのこと。

今でも日が暮れれば寂しげな嵯峨野 は、定家のいた頃は哀しいほどの気配だったことでしょう。

恩人であり歌の友でもあった隠岐の後鳥羽帝、その息子の佐渡の順徳帝のことに思いを馳せていたとすれば、その長男であり、自身が手ほどきをした土御門帝を忘れるはずがありません。

土御門帝は恨みを持たれていない・・・。
宮廷内の情報、さらに蓮生を通じて鎌倉の最新情報に接しうる定家です。
蓮生の依頼によって定家が編纂したという 『百人一首』 。
土御門帝に弁明する必要がなかったために、その歌を入れなかったのではないでしょうか…。

この謎、どう解かれますか?

***

*1 
定家の主であり、また当時の政治の一大勢力を誇った九条家は、定家はもちろん土御門帝のご生涯にも深く関わってきます。
ここでは定家が直接仕えた2代について Wikipedia から抜粋しておきます。

九条 良経 (くじょう よしつね)
嘉応元(1169)年 - 元久3(1206)年
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
妻に源 頼朝の姪にあたる一条能保の娘ら。
従一位、摂政、太政大臣。
摂政関白・九条兼実の次男。
小倉百人一首では 「後京極摂政前太政大臣」。
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ」

文治4(1188)年、兄が早世したため兼実の嫡男となった。
権大納言、内大臣へと昇進するが、反対派の丹後局と 源 通親 らの反撃を受けて父とともに朝廷から追放され、蟄居 (建久七年の政変)。
正治元(1199)年、左大臣として政界復帰。
建仁2(1203)年12月、土御門天皇の摂政となり、建仁4(1204)年には従一位、太政大臣
元久3(1206)年3月深夜に頓死。享年38。

和歌や書道、漢詩に優れた教養人で、特に書道においては天才的で、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。
叔父・慈円を後援・協力者として歌壇活動を展開。それは御子左家(みこひだりけ;藤原俊成-定家 父子が和歌の家として確立)との強い結びつきのもとで行われ、六条家歌人との交流もあった。
この良経歌壇は、のちに 『新古今和歌集』 へと結実する後鳥羽院歌壇へつながり、御子左家一派は中核的な位置を占める。
建久元(1190)年、和歌所設置に際して寄人筆頭となり、『新古今和歌集』の仮名序を書いた。

九条道家 (くじょう みちいえ)
建久4(1193)年 - 建長4(1252)年
九条良経の長男。
妻は太政大臣西園寺公経の娘(ら)。
鎌倉幕府 4代将軍 藤原頼経 の父
官位は従一位・准三宮・摂政・関白・左大臣。
九条通に東福寺を建立。

祖父・九条兼実に寵愛され、引き取られて養育された。
建仁3(1203)年、元服すると同時に正五位下。侍従、左近衛中将、従三位、権中納言へと栄進。
元久3(1206)年、父の良経が急死し、道家が継承。
承元3(1209)年、姉の立子が皇太弟・守成親王 (後の順徳天皇)の妃に。
左近衛大将、権大納言、内大臣、右大臣と栄進を続ける。
順徳天皇と立子に懐成親王 (後の仲恭天皇) が生まれると、東宮補佐役となる。
叔父の九条良輔が死去したこともあり、左大臣にまで栄進。天皇家の外戚関係になったことと、岳父の西園寺公経鎌倉幕府との関係が深く、幕府の後ろ盾によるところが大きかった。

建保7(1219)年1月、3代将軍・源 実朝が暗殺されると、道家の母が頼朝の姪に当たることから、執権の北条義時より3男の藤原 頼経(2歳)を 4代将軍にと要請され、同年6月、頼経を鎌倉に下向させた。
それより先の4月には順徳天皇が懐成親王に譲位して上皇となり、懐成親王(2歳)は践祚して仲恭天皇となり、道家は摂政となった。
承久の乱の後、朝廷方の首班が続々と処断され、仲恭天皇は廃位。
道家は討幕計画には加わらなかったが、摂政を罷免された。

嘉禄元(1225)年、北条政子が死去、翌年1月に鎌倉の頼経は正式に征夷大将軍に任命される。
承久の乱後、朝廷では西園寺公経が最大実力者として君臨していたため、政子の死や甥の頼経の将軍就任も手伝って、道家は安貞2(1228)年12月、近衛家実の後を受けて関白に任命された。
翌年11月には長女を後堀河天皇の女御として入内させた(藻壁門院)。

寛喜3(1231)年、長男・九条教実に関白職を譲ったが朝廷の実力者として君臨し、従一位に栄進。
藻壁門院に秀仁親王が生まれ、貞永元(1232)年に後堀河天皇の譲位を受けて四条天皇として践祚すると、道家は外祖父として実権を完全に掌握。
長男が摂政となるが文暦2(1235)年に早世、道家が摂政に復帰する。
九条家に反発する近衛家に嘉禎3(1237)年に娘・仁子を嫁がせた。
嘉禎4(1238)年、出家するが引き続き権勢を誇る。
四条天皇は仁治3(1242)年に12歳で夭折。道家は後継に順徳帝の皇子・岩倉宮忠成王(母は藤原清季;佐渡生れ)を推薦したが、北条泰時が強硬に反対する。
その結果、土御門帝・皇子の邦仁王が後嵯峨天皇として践祚。


*2
事件の背景
決裂に至った定家と後鳥羽帝の関係には、歌に対する立場の違いがあるようです。
歌が政治そのものだったというテーマはとても面白く、また土御門帝の “政治判断” にも関係があるのですが、ここでは後鳥羽帝の歌に関する本のまとめ部分を引くことにします。

大事なのは、後鳥羽院が宮廷と詩との関係を深く感じ取っていて、宮廷が亡ぶならば自分の考えている詩は亡ぶという危機的な予測をいだいていたに相違ない、と思われることである。それは彼にとって文化全体の死滅を意味する。彼はそのことを憂え、詩を救う手だてとしての反乱というほしいままな妄想に耽ったのではなかろうか。承久の乱はその本質において、文芸の問題を武力によって解決しようとする無謀で徒労な試みだったのではないか。わたしにはどうもそんな気がしてならないのである。 「おく山のおどろが下も踏みわけて」 世にしらせたいと彼が願った 「道」 とは歌道であり、あるいは 歌道を中心とする文明のあり方 であった。そして定家はもはやそのような幸福があり得ないことをよくわきまえていたのである。
『後鳥羽院』 丸谷才一・著 筑摩書房・刊 (日本詩人選 10) p.292


*3
私がはじめに読んで、まさに驚異だった林 直道氏の 『百人一首の秘密』
専門外の大学教授ゆえに発見可能だったとされる、歌織物は一見の価値あり。

イメージ 3

歌織物は京都のおかき屋さん「小倉山荘」のサイトで開くことができます。
 “ちょっと差がつく百人一首” 「百人一首は歌織物 《秘められた水無瀬絵図》」


また歌のつながりから別の歌が浮き上がってくる面白さ。西川芳治氏の謎解きは織田正吉氏の“クロスワード”説をヒントに研究された成果。

イメージ 4

理解するには相当の根気が必要な本です。
それでもあとがきに「本書に述べたことは、定家の意図からすれば、ほんの一面に過ぎないだろう」と言われます。
おそるべし、定家。
おそるべし、倭哥。


*4 嵯峨野イメージ 11
行宮址の北には 嵯峨原の女御 という女性が上皇なきあとに菩提を弔うために暮らしたという庵の址があります。
京都に残った正妻の藤原 麗子(ふじわら の れいし)や、典侍の源 通子(みなもと の つうし) ではありません。

嵯峨野・・・?

スパイ映画なら、上皇をお隠ししたあと、現地の情報収集および情報工作をするミッションを帯びて蓮生か定家に派遣された工作員だった、という設定が可能かもしれませんネ。











*5 厭離庵
今でこそ多くの観光客でにぎわう嵯峨嵐山ですが、定家の頃はうら寂しい洛外だったのではないでしょうか。
いただいたパンフレットに今日に至る経緯がまとめられています。

イメージ 1
定家の「小倉山荘」 旧址を名乗っているのは 「厭離庵」 のほか、 「二尊院」 「常寂光寺」 (ともに境内に旧址を表示) があります。

このうち二尊院の境内奥に、土御門帝、後嵯峨帝、亀山帝 の三代を分骨されたというる 「三帝陵」 があります。
珍しいかたちですが、亀山帝の以降、南北朝に分かれることになった際に大覚寺統;南朝の正当性を強調するために造られたのでしょうか(未確認)。

イメージ 2


ほかに 「慈眼堂」 には定家の持念仏と伝わる「木造千手観音立像」があります。