土御門ミステリー
土御門上皇をめぐる10の謎
ミステリー・4 もう一人の蓮生の謎


当時、私は阿波古事記研究会に加えていただいたばかりで古代史;ヤマトの始まりについて考えていました。
蓮生寺の近くに第8番札所・熊谷(くまだに)があります。
蓮生寺の熊谷(くまがい)住職に、その家系と熊谷寺の関係をうかがったのですが、ひとこと 「関係ない」 と。

熊谷寺は平安初期、弘仁6(815)年の創建と伝わる古寺ですから、それも当然かもしれません。

熊谷寺については前に書きました。
→ 八番札所 熊谷寺さん (1)  http://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/30370035.html

その境内から通りに出た道端に、起源にしては忘れられたように立っているお社の石碑から、熊谷寺は熊野信仰と関係する寺院かもしれないと想像していたのでした。

熊野、熊谷、ともに いや と読めます*1。

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阿波古事記研究会の皆さんならピン!とくるはず。
イザナミ信仰、そして神武東征にも関係するのではないかという事蹟ですね。

土成町は平安時代に熊野大社の所領となった時期があるので、その時に勧請されたのだろうというのが定説のようです。
が、ここは別の話題なので深入りしません。

興味がおありでしたら、こちらの記事も併せてお読みください。


さて蓮生寺に戻って、熊谷直章 住職はもうひとつ、気になることをおっしゃっていました。
「熊谷直実が阿波に来たという記録がないんだよね。」

この浦の池・蓮生寺の由緒に関わることなので、かなり熱心に調査されたそうですが。

直実は法然のもとで出家してから、いくつかの寺院を開基しています:
建久4(1193)年 栃社山誕生寺 (岡山)
建久6(1195)年 熊谷山蓮生寺 (静岡)
建久8(1197)年 熊谷山法然寺 (京都)
建久9(1198)年 光明寺 (京都;西山浄土宗総本山)

その後、出身地の熊谷郷(埼玉県熊谷市)に戻って、建永2(1207)年9月に亡くなります。

この直実は、ひとつ不思議なことをしています。
熊谷直実は熊谷に戻った後、下野国 領主 宇都宮頼綱(よりつな) へ浄土を勧め、後に「実信房 蓮生と名乗らせた*2
 
直実は「法力坊 蓮生」。
“坊”は僧侶の住居。ですから、同じ蓮生です。
熊谷:れんせい、宇都宮:れんしょう、と読み替える説がありますが、後世の区別のためでしょう。

いくら親しい関係だったとしても、同じ僧名を名乗るということがあるのでしょうか。
なにか深い事情があったのではないでしょうか。

そして栃木県を代表する名門出身の彼こそ “土御門ミステリー” の主要人物の一人です。

重要なポイントがいくつかあります。
  
宇都宮頼綱 (1172-1259)
・正室北条時政;初代執権の娘 (八女)
・側室にはともに御家人の稲毛重成梶原景時の娘を迎える
・北条義時の嫡男で後の三代執権・泰時の元服の儀に参列
北条義時から謀反の嫌疑を受けて1205年頃に出家
法名が熊谷直実と同じ 「蓮生」。
・法然の高弟・証空 に師事。財力により パトロン的存在 となった。
・歌人でもあり、
藤原定家 との親睦が深く娘を定家の嫡男・為家に嫁がせている。

執権の娘を娶るほどの実力者。
また側室を迎えた稲毛氏、梶原氏とも鎌倉幕府の草創期を支えた有力御家人でした。ともに北条の謀略などにより滅ぼされますが。
頼綱の母は平家の出身(崇徳院に仕えた平 長盛の娘)であったことも含めて、彼も微妙な立場だったことが推察されます。

出家したといっても、33才。
しかも坂東武者の当主らしい、壮年になっても血気盛んな様子が絵に描かれています。
嘉禄3(1227)年に、比叡山の僧たちが法然の墓を暴いて遺骸を賀茂川に流そうとした事件(嘉禄の法難)がありました。
この時に法然の弟子たちは夜中に遺骸を掘り出して移し、難を逃れたというのですが、その時に蓮生は「数百期騎」を動員しています(『拾遺古徳伝絵』)。

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しっかり帯刀。
しかも“数百騎”といえば立派な兵力です。
さすが“昔とった杵柄”・・・いや、武術の鍛錬は怠っていなかったのかもしれませんね。

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→ 東国真宗研究所 http://shinrankyun.com/?post_type=news

弟で、栃木県北部の塩谷郡の領主・塩谷家を継いでいた塩谷朝業(しおや ともなり) も一緒に出家して従っています。

私は特に蓮生の事蹟のうち、次の2点に注目しています:
・承久の乱(1221年)ののちに“鎌倉の留守番の褒美”に 伊予国守護 に任じられる。
・同じ元・武士の盟友・熊谷直実と同様、各地に寺を建立 している。
 
出家して16年もしてから守護、それも本領から遥か離れた四国・愛媛・・・。

次の可能性を考えています:
・浦の池の蓮生寺は、熊谷直実・蓮生ではなく、もうひとりの蓮生、宇都宮頼綱による建立
・住職の熊谷姓は2人の蓮生の混同、あるいは近くの札所、熊谷寺の僧が兼務したことから始まった
・土御門帝は襲撃されて亡くなられたのではなく、のちに述べる理由から御身を移された
・蓮生が蓮生寺を 土御門帝“護送” の準備拠点とした
・蓮生が守護をつとめる国 伊予 の寺院に土御門帝を一旦受け入れた

ときに幕府の主導者である執権は、将軍・源実朝の暗殺、そして承久の乱など騒然としていた二代執権の北条義時から、日本史上傑出した聖人君子とも賞される三代執権・北条泰時(やすとき)に代わっています。
この、もう一人の主要人物、泰時についてはまたのちに詳しく。
そこで蓮生こと宇都宮頼綱の立ち位置と、上皇ミステリーで果たした(と私の考える)役割が明確になります。


さて、少し登場人物がややこしくなってきましたか。
“もう一人の蓮生”頼綱について書いた記事をお読みいただければ幸いです。
 蓮生寺さん (番外編) http://blogs.yahoo.co.jp/matsushima_toru/36840898.html

ところで先日、宇都宮市にある清厳寺*3、頼綱公の墓所へご挨拶に行きました。

市内を流れるのは日光を水源とする利根川水系(堤防決壊で大問題となった鬼怒川上流)の、田川。
宇都宮氏が社家をつとめた 宇都宮二荒山神社 もすぐ近くです。



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宇都宮氏は、初代当主・藤原北家の藤原宗円が当地の豪族で当時の二荒山神社の座主だった下毛野氏(または中原氏)と姻戚関係を結んで土着したのが始まり。
毛野川(鬼怒川)流域一帯を支配する、平安末期から続く名家です。

宇都宮とは “一宮” の訛り説、遷座したことから “移しの宮” の意味という説、二荒山の神の “現宮(うつつのみや)” という説、東国を開拓して治めたという 豊城入彦命 (トヨキイリヒコ;第10代崇神帝の皇子) が住んだ  “うつくしき宮” が転じたという説など、諸説あるようです。

二荒山は日光の男体山の別称ということです。
宇都宮の二荒山神社はその遥拝所だったのかもしれません。

『平家物語』 では那須与一*3 が平家の船上の扇の的を射るとき、 「日光権現 宇都宮 那須の温泉大明神」 と祈ったと書かれています。


山門はどこか禅寺のような風情を感じます。

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境内に入って、本堂左手。
すぐわかるところに墓所はありました。

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両脇に並ぶのは兄・芳賀高照と弟・高継の墓石。


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彼自身は京都で88歳で死去し、遺言によって西山 三鈷寺証空 の墓の側に葬られました。
ですから、この宇都宮の墓碑は記念碑的なものですね。

由緒書きに 「百人一首」 との関係が記されています。

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頼綱の影響で宇都宮歌壇は京都に並ぶほど盛んだったとか。
現在も学校で子どもたちが 「百人一首」 を学んだり、大会が開かれているそうです。

お話は、さらにこの 「百人一首」 と配流された三上皇の謎が関わってきますが、それは次回に。

上皇さまの菩提を弔うという蓮生寺と同じ名の “もう一人の蓮生”が同時期に存在した。

この謎、どう解かれますか?

***

*1 熊野
能に 「熊野」 と書いて “ゆや” と読む演目がある。
平家の全盛期、平 清盛の三男・宗盛の愛妾で遠江国出身の熊野を主人公(シテ)とする。
喜多流では題が『湯谷』となるが、他の流儀では本来は“くまの”と読むべきだとする説がある。

「熊」は漢音で“ユゥ”、呉音で“ゥ”となる。
“ゆや”⇒“いや”の変化であるとすれば、熊野⇒祖谷への移動となるだろうか。


*2 宇都宮頼綱との出会い
埼玉県熊谷市の 「熊谷寺」のHP~熊谷寺案内には次のように記されている:

元久2(1205)年6月 「宇都宮頼綱へ念仏の教えを説く」
熊谷に落ち着いた蓮生は、六月中旬、道すがら下野国領主宇都宮三郎頼綱に出会っている。
剛の者と世に名を知らしめた直実の変わり様を尋ねる頼綱に対し、蓮生は次のように答えた。
  「いにしえの 鎧にまさる紙衣 かぜの射る矢も とふらざりけり」
この言葉は、日頃の争いから歌の世界に逃れようとするが、 逃れられず政争の渦の濁流に身を任せざるを得ないでいる頼綱の心を痛く揺すぶった。
二ヶ月ほどの後、頼綱は剃髪し、名を宇都宮実信房蓮生
(れんしょう)とした。



*3清厳寺
初めてうかがったときは墓所へのごあいさつだけでしたが、後日、ご住職にお会いしてお話をうかがうことができました。
宇都宮市街は明治4年戊辰戦争で一度は土方歳三の率いる別働隊が宇都宮城を落とすなど激戦がおこなわれ、このお寺も焼けてしまったのだそうです。
それで鎌倉以前の資料が残っていないのだと。
ご本尊も京都・知恩院からお迎えしたのだそうです。

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それでも、京都から証空上人が訪問されたことなどは聞いておられるとのこと。
三鈷寺へも行っておられます。
また比叡山ともつながりがあるなど、今も京都と深くつながっておられることがわかりました。
インドの日本寺ともご縁が深いそうで、話が弾んでつい長居をしてしまいました。
このミステリーの話を聞いていただき、まとまったら読んでいただけるよう、お願いして失礼しました。


*4 那須与一
現在の宇都宮郊外の那須出身の与一については、阿波徳島にも興味深い伝承があります。
土御門帝に直接は関係しませんが(たぶん)、よろしければお目通しください。