好天に恵まれたゴールデンウィークの一日 (2013年)。
友人宅でのお茶会のあと、まだ日は高かったので大阪から足を延ばし、土御門帝の 『金原陵(かねがはらの みささぎ)へ。
 
前に書いた 蓮生寺さん (番外編) 以来、気になっている旧・乙訓郡(おとくにぐん、おとくにのこおり)。
乙訓郡とは:
7世紀に弟国評が設置され、大宝令の施行により郡になった。
藤原宮跡から「弟国評鞆岡三」と書かれた木簡が出土している。
なお、「兄国」は葛野郡(現在の京都市西部)だと言われている。
 
 
兄弟で分担して治めたような歴史があったのでしょうか。
今は乙訓郡は大山崎町だけが名乗っていて、金原陵がある地域は長岡京市になっています。
 
① の位置です。
有名な 「長岡天神」 さんから1km ほど西にあります。
 
大山崎IC、2003年12月に天王山トンネルが増設されてからの供用とのことですが、今回初めて降りました。
 
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降りてすぐ、目のまえを走る 八幡 運輸 さんのトラック。
といっても、淀川南岸に石清水八幡宮のある八幡市があるので、この名の会社があっても不思議ではありませんが、なんとなく地元の神さまに歓迎されたようで嬉しくなり、パチリ。
 
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レンタカーの優秀なナビに導かれて曲がりくねった道を走るうち、気になる道標が次々と目に飛び込みます。
 
すぐに 「恵解山 (いげのやま)古墳」 。お~。
信号待ちの間にネットで調べると、全長128m、古墳時代中期の前方後円墳だそうです。
気になりますが、誘惑に負けてはいけません。
先に進みます。
 
すると、今度は 「小倉神社」?
小倉神社とは寡聞にして聞いたことがありません・・・。
小倉山の嵐山へは近いとは言えないし・・・。
 
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そういえば、かつて巨椋池(おぐらいけ)という巨大な池が三川合流地帯にあったのが関係するかな…。
などなどと考えつつ、神社の位置を地図にマークだけしておいて(上の地図の )、先を急ぎます。
もし時間に余裕があればうかがいましょう。
 
坂道を上ったり下ったりしながら、竹林の多い地域へ。
この辺りは確かタケノコの大産地。
直売所ののぼりも見えます。
 
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竹林の峠を越えると、明るい“参道”の入り口に出ます。
“御陵道” が改修された記念碑が立っています。
土御門帝の御陵のための道だったのでしょうか。
 
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地元では大切にされているようで嬉しいですね。
さらにすぐにもう一本、もうすぐだよ、という立派な石碑。
 
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大阪皇陵巡拝会 という会で立てられているのですね。
どんな活動をされているのかな。
ご縁があれば、また紹介させていただきます。
 
着きました。
専用駐車場もあって、手入れが行き届いています。
環境は抜群なので、この辺りには住宅が次々と建ち始めているようです。
 
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おなじみの宮内庁の看板が御陵を護っています。
 
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明るく開けている、公園のような道を100mほど歩きます。
 
 
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南に向かって、御陵の鳥居。
 
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謹んでご挨拶申し上げました。
 
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Wikipedia の土御門帝の稿には、あっさりと:
 
陵墓・霊廟
京都府長岡京市金ヶ原の金原陵(かねがはらのみささぎ)に葬られた。また、徳島県鳴門市には火葬塚がある。さらに、大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では、祭神として祀られている。
 
駐車場の横に立てられている 教育委員会の看板に、“その後”のことがもう少し詳しく書かれていました。
 
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ご崩御の経緯には触れず、その後の祀られ方が分かりやすく紹介されています。
 
・・・阿波で火葬に付された後、ここ金ヶ原に安置されました。
天皇の塚の上には母の承 明門院 によって金原御堂 (法華堂) が建てられ、天福元(1233) 年に落慶供養が行われました。
―中略―
この天皇陵は、仁治三年(1242) 御嵯峨天皇 の即位にともない天皇の即位を報告する山陵使の派遣先の一つに加えられました。
また寛元3(1245)年には天皇直筆の書状を献じる山陵使が、文永5(1268)年には蒙古襲来による国家的な事件を報告する山陵使が派遣されるなど、鎌倉時代 には 重要な山陵の一つ とされていました。

土御門帝は1231年のご崩御ということになっていますから、間もなくこちらに葬られたということですね。
後嵯峨天皇は土御門帝の第二皇子で、お母様は土御門通宗の娘、源 通子
 
江戸時代には“名ばかりを残す状況”だったといいますが、これは土御門帝陵に限らなかったようです。
 
鎌倉時代に重要視された理由は、近くの天神さん同様、祟りを怖れてのことだったのでしょうか。
ただ、蒙古襲来は文永の役が1274年、弘安の役が1281年で、文永5(1268)年はクビライの使節が初めて大宰府に入った年なので、ちょっと違いがあるかもしれません。
 
ともあれ、この御陵のことは引き続き検証を続けていこうと思います。
今回の乙訓レポートはあと少し (2) に続きますが、本日はここまで。
 
ーつづくー