思い立って、「水無瀬神宮」 へご挨拶に向かいました。
土御門帝 が祀られているはず。
土成の行宮址に、こちらの宮司さんの書になる上皇の歌碑が建てられています。
 
水無瀬神宮 (みなせじんぐう)
大阪府三島郡島本町にある神宮。
旧社格は 官幣大社。旧称は水無瀨宮。 
後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇 を祀る。 
境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた 「離宮の水」 がある。
 
後鳥羽天皇の離宮・水無瀬殿 の跡に建立された。
承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の 遺勅 に基づき、1240(仁治元)年、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。
1494(明応3)年、後土御門天皇 が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。
 
江戸時代まで 仏式で祀られていたが、明治時代に 神式 に改められ、水無瀨宮(のち水無瀬神宮)に改称した。
同じく承久の乱により配流された土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。 
1873(明治6)年に官幣中社に、1939(昭和14)年に 官幣大社 に列格し、水無瀬神宮と改称された。
 
 
土御門帝が合祀されたのは明治に入ってからのようです。
神としての歴代天皇の祀られ方の調査や整備が大急ぎでおこなわれたのでしょう。
 
 
京都と大阪の境。
宣伝のうまさで知られるサントリーが大阪府島本町にあるのに “山崎” を京風のイメージで使っているご近所で、京都府大山崎町にアサヒビールが美術館を構えています。
まあ山崎という字名は両方にまたがっていますから、いいですが。
 
水無瀬は 天王山 淀川 に挟まれた扇状地です。
困るくらい水には恵まれた土地のはず。由来は違ったのをしゃれで命名されたのかな。 
東大寺という地名も見える通り、水無瀬は奈良・東大寺の寺領でした。
 
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気付かれましたか?
官幣大社で マークというのは珍しいでしょう。もとは仏式だったとしても・・・。
 
 
「水無瀬」 といえば阪急電車の駅ですが、並行して走る JR 「島本」 駅から入りました。
 
駅前に出ると 「島本町立 歴史文化資料館」 を発見!
なにか資料をいただけるかもしれません。 
 
重厚な建物で、祝日でもないのに日の丸が掲げられています。
 
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館内は広々とした空間。
コンサートが定期的に開かれているのでしょうか。
 
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付近で発掘された弥生土器や古い農器具が展示されています。
 
水無瀬のジオラマ。 
 
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土御門帝に関する展示は見当たりません。
 
受付におられた男性に「徳島から来た者で、土御門上皇のことを調べているのですが」とうかがうと、奥から女性が出てきてくださいました。
いただいたお名刺には 教育委員会・生涯学習課 とあります。
 
でも、水無瀬といえば後鳥羽上皇のことが中心で、土御門帝のことはよくわからない、と。
徳島に御所があることもご存じなかったようでした。
 
町の図書館に資料があるかもしれない、そして、ほかに資料があればお送りくださると言ってくださいました。 
建物のことをうかがうと、ほんとうに愛着をお持ちのようで親切にご説明くださいました。
 
天上から下がっている丸いランプは当時のもので、とても斬新な設計がなされたことが分かります。
これだけの空間を支える柱も立派なもの。
 
パンフレットによると、大阪財界の重鎮の一人で、旧三和銀行取締役の一瀬粂吉を中心にした関西の有志によって 「桜井の驛」 跡を整備するとともに記念館として 「麗天館」 を1941(昭和16)年に建てたそうです。
戦後は「大阪府立青年の家」の講堂として使われ、その後島本町に譲渡、2008(平成20)年に 「歴史文化資料館」 として再開されたとのこと。
 
音響もすばらしいので、コンサートには最高だと。
でも隙間もあって、吹雪があるとどこかから入りこんが雪が床に落ちているそうです。
 
表に出ると足元に並べられていた瓦に“菊水”の紋。
神戸・湊川神社の紋がなぜ?
 
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駅前ロータリーをはさんで公園があります。
「史蹟 櫻井驛阯」 と。
ここは 西国街道 の中継点だったのですね。
西国街道とは、京都の東寺前から下関まで続く古い街道です。
 
ん、左手に妙な石像が・・・
 
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お~! 「滅私奉公」 ときた。
 
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楠 正成 が息子と別れたとされるところなんですね。
そういう話があったような…。
やっと理解できました。さきほどの会館の意味が。
楠公顕彰館だったわけです。
 
Wikipedia から:
桜井の別れ
西国街道の桜井の駅で 楠木正成・正行 父子が訣別する逸話。
正成は 湊川の戦い に赴いて戦死し、今生の別れとなった。
古典文学 『太平記』 の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話だった。
「駅」(驛)とは宿駅のことで、摂津国島上郡桜井村(現在の大阪府三島郡島本町桜井)に置かれた大原駅と言われている。
 
『太平記』によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。
建武3年5月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は大騒ぎとなった。
新田義貞 を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていた。
正成は尊氏と和睦するか、いったん比叡山に上って都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと 後醍醐帝 に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。
そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴く途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「故郷の河内へ帰す」と告げた。
「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、別れを告げた。
なお、訣別に際して桜井村の 坂口八幡宮 に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。
Wikipedia 桜井の別れ
 
涙ながらに語られた場面でしょうね。
 
“修身”は私の時代の“道徳”。最近は授業からなくなったという話ですが、どうなんでしょう。
少なくとも教科書には載っていないだろうな。
 
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「楠公父子訣別之所」 とある、これも台座から3m近くありそうな石碑。
 
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戦前の熱気が想像できます。
これが戦争へと突き進む国策に利用されたのだと、“反・保守反動”(ということは革新?)の方々が糾弾されるのもわからなくはないですね。
もしも、長男は11歳ではなく20歳くらいだった(のを脚色されていた)という一部の説が事実なら、よけいに。
 
でも、いまどき 「滅私奉公」 と言って通じるかなあ。
時代は“革新”の人々が想像しているよりも遥かに速く、あらぬ方向へ進んでいるように感じるのですが…。
 
 
楠木 正成 (くすのき まさしげ)
鎌倉時代末期から 南北朝時代 にかけての武将。 
建武の新政 の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
尊氏の反抗後は 南朝側 の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。
鎌倉幕府からは悪党と呼ばれた。
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年) には正一位を追贈された。
Wikipedia: 楠 正成
 
私は大河ドラマ 「太平記」 で武田鉄也さんが演じた楠 正成が印象に残っています。真田広之さんの主役・足利尊氏 を食ってたような。
片岡孝夫さんの 後醍醐天皇 や片岡鶴太郎さんの 北条高時 もよかったなあ。
1991年の放映というから22年も前なんですね。 
 
生き残った息子の楠 正行はその後南朝方の武士として戦いますが、桜井の別れから12年後に四条畷で討ち死にしてしまいます。
 
建武の親政 は、後醍醐帝が鎌倉幕府を打倒して再び天皇による政治を (わずか2年半で崩壊して南北朝時代に入りますが) 取り戻されたことです。
  
期せずして新しい発見でしたが、後鳥羽帝 は関係ないようです。
 
水無瀬神宮を目指して西国街道を東に歩きます。
 
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途中、すごく立派で近代的な建物のお寺がありました。
浄土宗・阿弥陀院、と。
 
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資料館の女性に水無瀬神宮の元の寺院は何宗だったのかをお尋ねした時、「浄土宗とか天台宗 とか、いろいろで・・・」 とおっしゃったことを思い出しました。
 
浄土宗といえば、水無瀬に近い長岡京に拠点をおいた西山浄土宗・証空 に弟子入りした もうひとりの蓮生宇都宮頼綱のことを思い出します。
 
調べてみると:
阿弥陀院 (あみだいん)
正法山。はじめ天台宗で、建暦年中(1211~13) 5度も焼失。
慶長12(1607)年、正譽了順を中興開山として水無瀬家が建立。広瀬村領主・水無瀬三位家の菩提所となる。
寛永19(1642)年 知恩院末となる
参照:「摂津名所図会」さん
水無瀬家という領主がおられたのですね。
西山派ではなく、鎮西派と呼ばれる浄土宗・知恩院の末寺ということ。
証空さんの線ではないようです。
 
(つづく)