蓮生寺さんが土御門帝とどう関係されたのかを、熊谷住職にお伺いすると、「よくわからない」とおっしゃいます。
この頃には、ご住職の実に慎重なスタンスを把握していたので、もう驚きません。
蓮生寺門前の石碑はなんなのですか~、と突っ込みを入れたくなる衝動を抑えて・・・。
 
もちろん科学の世界では慎重でなくてはなりませんが、民俗学、民族学や文化人類学の領域においては伝承や状況証拠をもとに仮説を立て、その仮説を多くの人に検証してもらう姿勢でよいのではないでしょうか。
その仮説が力をもてば、遺跡の発掘、遺物の年代測定や遺骨のDNA鑑定など、費用をかけて科学的検証ができる機運も高まるはず。
 
145年前の坂本竜馬暗殺や75年前の南京事件(いわゆる南京大虐殺)などでわかるように、歴史の旅とは得られる物証をもとに想像力を働かせることであって、あいまいにしているうちに貴重な物証が失われてゆくのです。
そして今、阿波・徳島に残る古代遺跡が(遅れてやってきたような)開発の波にさらされ、そして核家族化する前の家や地域の伝承を知る人たちが減っています。そのことがあまりにもったいなくて、まったく素人でほとんどよそ者の私が歴史の勉強を始めたわけです。
まだまだ想像力を起動する段階ではなく、なにが残っているか、“大蔵ざらえ”をしているようなことですが。
 
ということで、探索を続けます。
 
本堂の南側にひっそりと並んでいる2基の、土台を含めないと高さ50cmほどの五輪塔。
 
イメージ 1
 
主の名前として 「正則・広則の墓」 とあります。イメージ 2
 
この2人の素性をうかがうのに苦労しましたが、ご住職は「武士ではないのではないか」とおっしゃいます。
とても武士っぽい名前ですが。
 
徳島新聞の連載 には、寛喜3(1231)年に鎌倉幕府の命を受けた軍勢が御所を襲い、土御門帝は裏門から(おそらく宮川内川に沿って)山奥へと逃げられたという言い伝えが紹介されています。
 
その帝を護衛したのがこの兄弟ではないかと、岩音さんからはうかがっていました。
 
いっぽうご住職は、西光屋敷が鹿ケ谷事件(1177年)の後に、平家に属した田口成良によって西光の屋敷が攻められたことが土御門帝が襲われたという話にすり替わってしまった可能性があると考えておられるとか。
 
西光屋敷襲撃事件 に関する記録がどうしても見つからないのだそうです。
西光事件の記事でみたように、政治的な事情で記録が消されたのでしょう。
確かに混同された可能性はありそうです。
 
けれど熊谷住職ご自身が編纂に関わられた『土成町の史跡・伝説』 には、上皇が攻められたとき、正則・広則 の兄弟も勇敢に戦ったが敗れ、吉田の岡の部落まで逃れ、自害した、と伝わるとあります。
 
「正則・広則の墓」の五輪塔はもとは吉田の張間田というところにあったものを移してこられたのだとか。
右の墓碑も新しいわけです。
 
 
この冊子の第2章に土御門帝に関する記事が集められています。
 
「うのた峠」
土御門上皇の都よりお供をしてきた 間野右近・宇野左近 という二人の近侍がいた。二人は上皇が自害した後、阿讃の国境まで逃げてきて、自害をした。
この峠を二人の姓をとって「うのまの峠」と呼んでいたが、後になって 「うのた峠」 と呼ぶようになった。
 
正則・広則とは、 間野右近・宇野左近と混同されてしまった誰か、なのでしょうか。
 
他にも土御門帝のために戦った武士や土豪がいたという言い伝えを採集されています:
 
「奥御所神社とお腹石」(土御門上皇終焉伝説地 町指定史跡)
御所屋敷にいた上皇に、鎌倉より追手がきて、上皇お付きの渋谷権太夫、当地の豪族原田氏も加勢して戦ったが、上皇は宮川内谷を奥へ今の奥御所神社あたりまで逃げ、そこの大岩の上で自害した。
御年37歳であった。
原田家文書によれば、大幸村の城主・忠津将監原田義實 が討手の武士を打ち取り、御装束を取り返し池の谷の池中に埋めたとあり、その戦いで将監は討死、義實は深手を負い6日(後に)死んだと書かれている。
 
「昌仙塚」
西原にあり、土御門上皇に忠勤をつくした渋谷彦太夫の塚である。
古来百日咳に効力があるといわれている。
 
「五名塚」
宮川内の公の下にあり、「五名さん」 と呼ばれている。
上皇が宮川内谷に逃れた時、しんがりを勤めた剛の者、五名三郎という武士の墓といわれる。
 
もちろん確証はないのでしょうけれど、土御門帝の周辺でなんらかの “不自然な動き” があったと考えるほうが自然ではないでしょうか。
後世に残されるとはとても思えない、“上皇が襲撃によって落命”されたという、ありえなさそうな異常事態の伝承が断片的にせよこれだけあるのですから。
 
「上皇の墓所」
浦ノ池の蓮生寺の古文書によると、藩政時代、当時の浄土真宗の本山・京都の仏光寺より土御門上皇のその後の消息を問い合わせに答えた文書があり、それによると、上皇の遺体は蓮生寺で引きとり、寺より6~7町南の 日吉山 に埋葬し、大小二基の石柱をたててある。
日吉山では十分管理できないので、それをするにはそれなりの手当を支給されたし等と書かれている。
明治20年頃に発掘された時、古鏡・古剣・古銭等が出土したという。
 
1町は約109.09m。現在ゴルフ場の一部になっていて、徳島自動車道のトンネルが通っている辺りが 日吉山 になるようで、日吉という地名がその南側にあります。
 
帝や周辺の人たちの変死に関係する伝承と、闇に葬られた感のある西光事件・・・。 
絡まって固まった糸をほぐす作業がこれから待っていますね。 
 
 
イメージ 3
日吉山に埋めたという話とは別に、公式には池谷の古墳塚でご遺体は荼毘に付されたことになっているようです。

明治2(1869)年 になってから阿波藩・最後の藩主・蜂須賀茂韶 が鳴門の墓陵 (古墳?;「阿波神社」 を土御門上皇御陵と決め、さらにその3年後に宮内省が 「御火葬塚」 としたもの。

「阿波神社」 は、徳島県が昭和15(1940)年紀元二千六百年 “記念事業” として 丸山神社 という村社を改称して建て替えたものだそうです。

全国から121万人が動員されて奈良に神武帝の畝傍橿原宮があった地として橿原神宮が造られた、あのときですね。 

イメージ 2

大日本帝国・・・。
天皇を自死に追いつめたなんていう話は禁句!だったでしょうね。
 
広大な敷地をもつ「阿波神社」。
 
イメージ 4
  
社紋は菊花ですが、土御門帝をおなぐさめする役割を果たせているでしょうか。
 
拝殿には陰陽道・土御門家による奉納がありました。 
陰陽道・土御門家は、土御門帝や帝の親族になる鎌倉時代に断絶した村上源氏・土御門家とは直接の関係はなさそうです:
 
土御門家 (安倍氏嫡流)
家祖:安倍有宣
公家(半家)
室町時代の陰陽師・安倍有世(安倍晴明 の14代目の子孫)の末裔。安倍氏の長者を代々勤めた。
安倍氏は晴明以後も朝廷に代々公家として仕えていたが、室町時代に他の公家同様本姓ではなく家名を称するようになった。
一般的には有世をもって土御門家の初代とするが、実際には室町時代中期以後の 南北朝時代 の当主安倍有宣から土御門の家名を名乗ったといわれている。
 
応仁の乱を避けて、数代にわたり若狭国南部(現在の福井県大飯郡おおい町)に移住していた。当時の若狭は、東軍の副将をつとめた強大な守護大名 武田氏の守護国であり 庇護に与かるため、都の公卿たちが多数下向し繁栄していた。
江戸時代初期に家康の命令で完全に山城国 (京都) に戻り、征夷大将軍宣下の儀式時には祈祷を行った。
江戸時代は御所周辺の公家町ではなく、梅小路に研究所も兼ねた大規模な邸宅を構えた。
家格は半家。 安倍晴明の子孫である土御門家は、明治維新後華族令により、子爵を授けられる。
→  Wikipedia
 
半家とは公卿のなかでも下位ながら、“特殊な技能”を受け継いでいた家系。 
陰陽道の土御門家については時間をかけて調べ、また稿を改めたいと思います。