のちに土御門帝が土成に来られることと関係があるかもしれない史跡が、行宮跡の800m南にあります。
土成町の南隣り、吉野町柿原の県立 阿波高校 のグラウンドの北端に忘れられたように立つ一本の石碑、「西光屋敷」 とあります。
西光 とは、少し時をさかのぼって 平 清盛 の時代の人です。
帝が土成に来られる原因となった承久の乱の44年前に、京都で起こった事件の中心人物の一人なのです。
 
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NHKの大河ドラマ 『平 清盛』 に登場、主人・信西(しんぜい)の後継として 後白河上皇 の側近に。

Wikipedia では:
西光(さいこう;? - 安元3(1177)年6月)
平安時代後期の官人、僧。後白河院の近臣。
俗名は 藤原師光(ふじわら の もろみつ)。子に師高、師経、師平らがある。
信西(藤原通憲)の乳母の子と言われる。
阿波国の豪族・麻植大宮司家 (麻植郡 忌部神社 祠官)の 麻植為光 の子で、もとは阿波国の在庁官人であったが、中納言・藤原家成の養子となる。
乳兄弟とされる信西の家来となり、左衛門尉に昇る。

平治の乱で信西が死ぬと出家して西光と名乗る。
のち 後白河法皇 に仕え、「第一の近臣」と呼ばれた。
西光は藤原成親・俊寛・多田行綱らの平氏打倒の陰謀に加わり、鹿ヶ谷の山荘での密議の首謀者となる(鹿ケ谷の陰謀)。
安元3(1177)年3月、子の師高と師経が比叡山と紛争を起こし、比叡山大衆が強訴する騒ぎとなる。師高と師経は処罰されるが、西光が後白河法皇に讒訴して天台座主・明雲の天台座主職を停止させ、拷問の上で伊豆国に流罪にさせた。
明雲は配流の途中で衆徒に奪回され、西光は後白河法皇に厳罰を進言する。
同年6月、比叡山との紛争の最中に行綱が鹿ヶ谷での陰謀を平清盛に密告。西光は後白河法皇のもとに逃れようとするが捕縛される。
清盛は西光の顔を踏みつけ責めるが、彼は逆に平氏を罵った。激怒した清盛は西光を拷問の末、五条西朱雀で斬首させた。
 
西光が清盛に敵対するきっかけになったのは、西光の主人であり恩人である信西を討った源 義朝の嫡男・頼朝を 「きっと死罪にする」 と約束しながら流罪で止めたから、だといわれています。イメージ 2
ドラマでは清盛は信西と大の理解者として描かれていますので、ほんとうに皮肉な展開です。
加藤虎ノ介さんが熱演しています。
 
取り調べのときに清盛への批判を続けたためにずいぶんむごい殺され方だったようで、手足を固定して陰謀について厳しい拷問の末、口を裂かれてから殺されたと伝わっています。
また嫡子の加賀守・師高(もろたか)は流刑先の尾張・井戸田で殺され、次男の近藤判官師経(もろつね)、その弟で左右衛門尉・師平(もろひら)、郎党3人が同じく斬首されました。
 
西光屋敷は鹿ヶ谷事件当時、息子の広永(ひろなが)が預かっていましたが、事件後すぐに阿波の平家一門・田口成良(たぐち しげよし)によって攻め滅ぼされたそうです。

ともに出家していた清盛と西光・・・。
肉親の間で敵味方が入り乱れ、おそらく不信と恐怖が覆っていたこの時代を象徴するような凄惨な事件です。
 
注目したいのは、西光の出自。
阿波の忌部(いんべ)一族で柿島(石碑の所在地は柿原で、付近に中洲でもあったのでしょうか)の豪族、麻植大宮司家出身で都では 藤原 を名乗る貴族となっていることです。
やがて後白河法皇のブレーンとなって全盛期の平氏を押さえ込もうと画策する(実際に平氏没落の序章となった)ほどの力を発揮しています。
 
鹿ケ谷の陰謀に関わったとされる 俊寛 (一族の末裔が阿波市にご在住と、上の徳島新聞の記事にあります)が歌舞伎で有名なのに対して、あまり知られていない西光。
この事件は平氏側(清盛)が後白河院の近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件(Wikipedia)という説もあって、とても後味の悪さが残ります。
 
一族の無念の思いが、このあたりをまだ漂っているような気がしました。
 
 
グラウンドに下りる手前の道端には、役行者像が祀られている祠。この辺りに修験の寺があったのでしょうか。
木の根に押し上げられて傾いていることもあって、少し荒れた感じがします。
 
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地域を代表する名門校として、ぜひ郷土の片隅に押しやられている歴史(を生きた人々)にも思いを向け、その誇りと個性を次世代に伝え続けていただきたいものです。
 
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P.S. (2013.8.18.) 
この物語には続きがありました。
『平家物語』 の巻第十一、義経が嵐を押して阿波に渡った直後のことです。
 
判官汀に打立て、馬の息休めておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、「あの勢の中に、然るべい者やある。一人召て參れ。尋ぬべき事あり。」と宣へば、義盛畏て承り、唯一騎かたきの中へ馳入り何とかいひたりけん、
年四十計なる男の、黒皮威の鎧著たるを、甲を脱せ、弓の弦弛せて、具して參 りたり。
判官、「何者ぞ」と宣へば、「當國の住人坂西の 近藤六親家 」と申す。
「何家にてもあらばあれ、物具な脱せそ。やがて八島の案内者に具せんずるぞ。其男に目放つな。迯て行かば射殺せ、者共。」とぞ下知せられける。
 
百騎ほどを従えて参加していた 近藤六親家(こんどうろくちかいえ)という武将。
これが 西光の息子 だというのです。
 
このことを知ったのは、土成の友人が貸してくれた一冊の本。後藤田みどりさんが新聞やタウン誌に寄稿されたエッセイなどを集めた 『わすれな草』 という単行本(2007年/徳島出版・刊)です。
その部分を引用させていただきます:イメージ 4
 
義経は今から八百年余前、大阪・渡辺の津より舟を漕ぎ出し、小松島の 赤石 あたりの浜(勢合)へ着けたと平家物語に書き残されています。それを出迎えたのが、板西城と新居見城の城主の近藤六親家でした。六親家の父親は平家討伐を企てた 鹿ケ谷の密会 が露見し、清盛に首を鋸で引き切られた僧 西光 です。兄弟たちは皆、平家に討たれましたが、六男 の六親家は幼かったので助かったのです。六親家は親兄弟の仇討をしようと源氏軍に協力しました。当時彼の協力なくして、義経の屋島攻めは難しかったと思われます。
『わすれな草』 p.25-26
 
板西(ばんざい)城は板野町にあった城で、新居見(にいみ)城は小松島市新居見町にあった城。
 
平家側に追及されながらその後に城主にまでなっているということは地元に相当の支援者があったということでしょうね。
義経に加勢したのは 「伊勢義盛の説得に応じて」(Wikipedia:新居見城の稿)ともいわれています。
 
『平家物語』 では六親家は何度も義経に呼ばれて平家側の情勢や地理について尋ねられ、詳細に答えています。
実際に彼の貢献が大きかったであろうことは、のちに六親家は信濃国伊那郡郊戸庄の地頭職について板西(坂西)氏を名乗ったことから想像できます。
この板西氏は途中に断絶したようですが、のちの南北朝時代、信濃國守護職についた小笠原家の一人が再興しています。
阿波の歴史は広がり、つながっていったのですねえ。
ちなみに六親家という変わった名前、実際は 近藤六郎周家(ちかいえ) といったようです。
参照→ 『古城の歴史』 [飯田城]  http://takayama.tonosama.jp/html/iida.html
 
六親家を説得したという伊勢義盛は、のちに田口成良の息子をだまして投降させ、それが平家方にあった阿波水軍の源氏への寝返りにつながったとされています。
 
余談ながら、『平家物語』 の同じ段で、義経が六親家に地名を尋ねたとき、「一定 かつ浦候。下臈の申やすいに付て、かつら とは申候へども、文字には 勝浦 と書て候」と答えています。
 
いくさを前に着いたところが勝浦とは縁起がいいぞ!と義経は喜ぶくだりですが、“勝浦”が“かつら”であることの(日本史上の)重要性について、のらねこ先輩が全国の勝浦を調べて解説されています。
併せてご一読ください。
 
 
P.P.S. (2016.5.19.)
忌部神社の宮司家を襲ったり、平家を裏切ったりと、相当な悪党だと思っていた田口氏。
ところが田口氏は阿波国造・粟凡直 の末裔で、神山の上一宮大粟神社に関係する立派な家系だと、ぐーたら先輩の記事にチラ、と出てきます。
歴史はできるだけ公平に、よく調べてみなくてはなりません。