18年前に、父は亡くなりました。
私の幼い頃は大家族で、祖父母・両親・叔父・叔母、そして
私たち… 多い時は11人?12人?長男の父だけではなく母も
本当に大変だったと思います。
酪農家だったわが家、裏の里山を切り開いて鉄線を張り微電流を流した、狭いながらも遊ぶ場所のある乳牛牧場でした。
家長は祖父だったけど、腰の悪い祖父はたまに畑に草取りに行く程度、私たちの世話は祖母で、乳牛の世話は両親の仕事、母は
家事もしなければいけなくて、、、 それでも親としての責任
からか?顔を見れば「宿題したの?」「勉強したら~」…と。
そんな母とは違って、父は堅物でした。幼い頃の私は、恐い人!と、そんな印象しか。。。
でも、細かいことに口出ししないながらも成長は見守ってくれていたのでしょう。いつの間にか?「俺の言う通りにすれば間違いない!」なんて。。。
いつの間にか長女の私だけ、箱入り娘にされてた感じです。
妹に言わせると、段ボール箱か?みかん箱か?その程度よ!
~と何だか笑えるような話ですが、それは今だからです。
あの頃の私は、理路整然と言うのが正しいのか?筋道が通った
説得力のある父の話に言い返す知恵がなかったのです。
将来、何になりたいか?なんてこともなかったし。
まぁ~そんなこんなで流されて高校卒業。。。
その後の進路は、私のだんまりでの抵抗で、何となく~~~
両国の〇大講堂での入学式は、「俺が行かなくてどうする?」
そんなことを言った父、東京の外れの方から~二人での珍道中。
帰りは秋葉原の電気街を見て来よう!日曜大工が得意だった父
だったので、道具をいろいろ買いたかったようですが、何しろ
田舎者です!今のように情報を得られる手段もなくて、ウロウロしたことしか覚えていません。
でもこの頃からかな?父が私を一人前と見始めたのは。
70歳になった時、心臓の手術を受けました。
それからの父は体力の限界を感じたのか?誰か畑仕事を手伝いに来てくれないだろうか?ぽそっと言ったのです。
明治生まれの親に育てられた父ですから、娘は嫁いだら他所の家の者!…とそんな風に思っていたのに、よっぽどのことだったと思いました。
手を挙げたのは長女の私で、車で1時間位の私が一番近かったのと、同居していた義両親が健康だったからでした。
父は律儀に、義両親に許可まで得てくれて… それから週に2回の実家通いが始まりました。
恐かった父は成人してからは怖い存在ではなくなっていたけど、農作業の手伝いに行き始めてからは、それまでの30年~40年~を取り戻すかのように、いろいろ~いろいろ~ 話しました。
娘3人に、誰か手伝いに来てくれないかな?…と言えば、私が…と言うのも読まれていたみたいですよ。
私たち姉妹はみんな長男に嫁いだので、両親が困っていても
知らずにいることが多かった、でも私が行き始めてからは何でも筒抜け、私一人では大変な時は二人に応援頼んで、その時から
だったかも?姉妹の絆が深まったのは。。。
…と、昨日はたくさんのことを思い出しました。
こぐま君が休暇を取っていたので、3人でお墓参りに行き
ましたよ!
花立が4本あるので、毎度、3,000円は下らないお花代は、今回はたくさんのお花が前畑にあるので持って行きましたよ。
ライン送ったら、妹たちは喜んでました。
お花がすごいね~!…なんて言われると、またまた張り切って
しまう単純な私です。
M市の妹は、時々洋服を送ってくれたりします。
秋になったら農作業に丁度良さそうです。
(人''▽`)ありがとう☆