山姥を検索したところ、魔女や鬼婆も山姥の仲間だそうである。
私としては、山姥と鬼婆と魔女を一緒にしてもらいたくないのよ。
それぞれキャラが違うのだ。
山姥の話をこのまま進めていきたいのだけれど、その前に妄想について妄想してみたい。私は山姥を妄想するのが好きだけれど、クリントン・リチャード・ドーキンスという方は、「神は妄想である」と、言っておられる。だからなんなの、と言われそうだが、彼は妄想を批判などしていない。好きに妄想すればいいのだけれど、「神は妄想である」という説は決して譲らない。「神は妄想である」と言ったばかりに、各地から鬼のような扱いを受けているのだ。理不尽だ。
秋田県の男鹿地方の人々は、なまはげは、「神であり鬼である」と考えて、敬愛している。
宮城県の旧家には、「かまど神」と称する神様の巨大な頭部が柱の上のほうにおられる。なまはげよりすごい鬼の形相をしている。
「万物には神が宿る」と日本の多くの人々は潜在意識の中で思っている。見た事はないが、そう思うのだ。「神は鬼」であるなら、万物は鬼の乗り物であっても不思議ではないと思ったりする。
日本では、節分の時くらいしか鬼に関心を持たないが、鬼だって生まれた時がある。昔々、(138億年くらい前?)、大勢の鬼が宇宙に散らばったと。生まれるとすぐに消滅した鬼もいた。今生き残っている鬼は、運よく生き残った幸運な鬼なのだ。(鬼は不死身だから神に姿を変えただけかな?)
近年、鬼の姿を見たという人がいる。どんな姿かといえば、「粒であり波である」という。「神であり鬼である」と言っている男鹿の人々となんだか似ている。
