「はるかな国の花や小鳥」のエドガーとエルゼリの<幸福論>は、自分が幸福を感じるかどうかという話だった(ブログ<幸福論>参照)。

 

「エディス」では自分が愛する人を幸せにしてあげられるかどうかということ。

 

好きならば好きなほど

愛してれば愛してるほど

きみは後悔するんだ

幸福にしてやれないもどかしさに!(179頁)

 

他のバンパネラはこう考えない。

旧シリーズでは登場するバンパネラがそもそも少ないけれど、例えばフランクは自分で女性を選び、すべてを捨てさせて、仲間に加えた。ポリスター卿も同じことをするつもりだった。

2人が愛し合っていれば、それでいいのだ。

シーラは納得し、十分幸せだっただろう。

アランもどちらかというとこっち。

 

あの子が幸せなふうだと ぼくも幸せになるんだもの(「エディス」131頁)

 

それで済まないのがエドガー。

(自分で仲間に入れるか、それとも大老ポーや老ハンナに仲間に入れてもらうかで意識が異なるのかもしれないけれど)

(仲間に入れるのはやはり長老格に任せた方がいいということか。子供では責任を背負いきれない。重荷になってしまう。)

 

「エディス」の179ページのエドガーのセリフ、アランはエドガーがメリーベルのことを話しているとしか思っていないけれど、これはアランにもあてはまるはずで、エドガーはアランに語りかけていることになるのだ。

 

エドガーにしてみれば、メリーベルもアランもすべてを捨てさせて自分が仲間に入れてしまったわけで、人間としての生活・幸福を自分が奪ったと思っているのだ。

(メリーベルもアランもそうは思っていないのだけれど)

 

メリーベルもアランもそれなりの人生があったはずで。

メリーベルには「ぼくのことをうち殺したっていいんだ」(「ポーの一族」43頁)とまで言っているけれど、アランにはそこまで懺悔している箇所はない。でもエドガーの2人に対する思いは同じはず。

 

ここに至って、メリーベルのことしか思い至らないアランは、最後まで思慮が足りないのだよ。

まだ「ぼくはエドガーにとってメリーベルの身代わりで・・・」と言っているし(180頁)。

 

 

「はるかな国の花や小鳥」と「エディス」は<幸福論>としてはつながっている。

自分が幸福を感じること、愛する人を幸せにしてあげること。

 

「エディス」のエドガーはひたすらアランに冷たいのだけれど、エドガーはエドガーでエディスを仲間に入れるかどうか、そして入れない方が(アランとエディスにとって)いいとまで考えたのだよ。