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降っても晴れても

山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

佐渡めぐり第三日目の第三部です。ランチタイムに海鮮丼も食べて、ひたすら佐渡一周線をドライブしていく。真野と佐和田を過ぎて中山トンネルをくぐって、相川に着いた。

 

【2024年5月21日(火)】 小木・宿根木~沢崎鼻~椿尾の石切場~佐渡金山

 

相川の歩道を歩いていたらマンホールがあった。言わずと知れた佐渡金山、道遊の割戸だ。花は海岸に自生するマルバシャリンバイ。

このマンホールカードをもらうために立ち寄ったのがここ。新たな資料もゲットして、金山へ向かいます。

 

佐渡金山は二度目だが、年月が経ったのでリニューアルされた部分もあるかと思った。でも基本的には変わってなかった。とりあえず宗太夫坑コースと道遊坑コースを見学してみた。

佐渡金山が発見されたのは慶長6年(1601)なので、ほぼ江戸幕府の歴史とともに発展してきた。

開削された坑道の総延長は400kmに及ぶ  驚き 佐渡島2周分じゃん!

 

何をしているのかな?

これは我々の歩く道です。ひんやりしていて坑内の気温は10℃。真夏だと外との温度差が20℃とか25℃もあるのです。

 

この坑夫の方は、「早く帰りてぇな~にょうぼに会いてえな~」と語っていた。16年前と変わってない。正式に世界遺産になったら多国籍語のイヤホンガイドとかを用意するんだろうか。

インバウンドが増えたら恥ずかしいなぁ~。

 

水替え作業もとてもたいへんだった。佐渡へは1800人もの無宿人が送られた。過酷な労働で寿命も短かったという。江戸幕府だから維持できた産業なのでしょう。ちなみに金山奉行は大久保長安だった。

 

お祓いのような神事も行っていた。

 

地上作業のジオラマ。小判の鋳造がゴールになる。最盛期には年間で金が400kg、銀が40t以上産出した。

 

一旦外に出て、道遊坑へ入り直します。ここは明治32年に開削された。平成元年まではトロッコが走り回っていた。もう無宿人労働者もいない時代です。なお1896年に三菱に払い下げられた。手持ちのパンフレットの一つは、三菱マテリアルが出してるものだった。

 

こうして改めて見て感じてみると、興味深いものだ。欲を言えば歴史やデータを綴った冊子があれば買っていくのに。

2コースのセット券が¥1500は高めですが、佐渡だから払って見学する価値はあるかな。どうせ自分たち、後は海岸や家並みしか見ないのだから。

 

坑道を出た所に機械室。常々思うが、産業機械というのは複雑でよく出来てる。

 

広場からは佐渡金山のシンボル、道遊の割戸がよく見えた。巨大な割れ目自体が露天掘りの跡で、幅30m・深さ74mとなっている。

 

金銀鉱石を運んだトロッコ、もうかけらも残ってないわ。

 

ここで佐渡金山を一旦締めくくって、中山トンネルをくぐり直して沢根に戻る。台ヶ鼻を回り込んで長手岬に立ち寄って、七浦海岸の夫婦岩に到着。

見る角度を変えたら、穴が開いていた。ここもジオサイト、2000万年前の火山灰の塊だとか。

車を停めた「めおと岩ドライブイン」は見た目はあれですが、営業していて美味いものも出してくれるらしい。ここで16時となった。

 

七浦海岸北端の春日岬です。草原の岬の真ん中に江戸時代の石灯籠が立っていた。フレームがとても細くて、芸術的だ。

七浦海岸の眺め。

石灯籠からは、なんと道遊の割戸が見えた。割れ目の右の岩が白く輝いている。かつて金山を発見した山師たちも、こうしてどこかから眺めて見つけたのだ。少しは懐に入ったのだろうか。

 

今宵の宿は相川北郊の海岸沿い。部屋のベランダからの落陽。

沈んでからもまだやることがあります。そろそろ準備をしようか。

 

北沢浮遊選鉱場は佐渡金山の関連施設である。ここで毎日ライトアップをやっている。この施設は昭和13年からの国策による大増産期に建設されたもの。月間7万tの鉱石処理を行った。どういうシステムなのか、イメージが湧かないのが物足りないところだが。

 

まるで用意してくれたかのような月が煌々と照り、幻想的です。

刻々と色が変化していく。

 

シックナーという施設は、精錬過程で泥状の鉱物を洗って分離するもの。直径50m。日常感覚を越えてます。

 

虹色になったところで、お開きに。佐渡の三日目終了です。

 

つづく