降っても晴れても

降っても晴れても

山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

今回の信州の旅では、西天竜幹線水路の探索に始まって下伊那郡の狛犬を時間の許す限り探訪してきた。三日目は秋葉街道を大鹿村から高遠へとたどりながら、時折垣間見える中央構造線の露頭を眺めていきます。

 

【2024年9月14日】

 

飯田市内のホテルを早立ちして、小渋ダムのダムサイトに立った。小渋川の流れてゆく先は天竜川で、その伊那谷ともしばらくはおさらばだ。まだ朝の光が届かない。

 

小渋ダムは大鹿村へ入るための表玄関である。赤石岳から三伏峠に至る主脈西面が吐き出す膨大な土砂を、幾多の砂防堰堤が押し留める。そして小渋ダムが「南アルプスの水」を下界へ送り出すのだ。こうして見ると黒四ダムを彷彿とさせる。放水してないので物足りない気がする。

ダム湖の上流側を見る。大鹿村は関門のような山並みの奥にあって、さらにその奥が南アルプスである。

 

小渋ダムからいくつかのトンネルを潜り抜けて、大鹿村役場に着いた。目の前で小渋川と鹿塩川が合流している。合流点の先には生田堰堤があるので、歩いて行ってみよう。

 

ここは取水堰となっている。導水路は延々と地下トンネルで進み、松川町の生田発電所で発電されて天竜川に注いでいく。生田発電所は昨日朝一番で訪れた円満坊のすぐそばにある。

一昨日の西天竜幹線水路は農業用水で、ここでは発電用ということ。

昔は小渋川コースで11月の赤石岳に登ったことがあった。当時は夜行電車で伊那大島駅まで行って駅で寝て、翌日湯折登山口出発が8:40だった。たぶんタクシーで入ったはずだが、そんな昔のことはもう忘れてしまった。自分にとって二度目の赤石岳登頂だった。

 

朝6時過ぎの大鹿村役場はまだ寝静まっている。

今日車で走る国道152は秋葉街道であり、昔の塩の道だ。古道は国道ではなくて山間部の集落を通っている部分が多いけれど、とりあえず車で寄り道しながら行くことにします。

まず少し上流の東側山腹、文満集落へ登ってみる。標高差200mほどを車で上がると、秋葉古道のT字路に着く。そこで少し歩いてみる。

尾根の突起に中尾神明社がある。境内に蚕玉大神石碑があった。深い山間集落での養蚕とは、想像もつかない。

神明社の下の道には石仏が数体集められていた。青面金剛や庚申塔など。素朴である。

 

神明社から少し下ると中尾茶屋堂がある。伊那坂東霊場の19番札所。なぜここでは西国ではなくて坂東だったのか?

古老曰くという解説があるが、昔は敵に備えて陣鐘を左手の夫婦松に懸けていたという。

 

坂道の途中に展望地があって、対岸の大西山崩壊地が見える。昭和36年6月に未曾有の豪雨によって大崩落が起こった。家屋40戸、田畑も小学校も流された。当時すでに生田堰堤があったが、おびただしい土石流が発生したという。

 

一旦車で国道まで下って、大西山大崩落跡の大西公園に行ってみた。今は何事もなかったかのように、元からそこにあった岩山のように見える。

公園には大西観音が建立された。下部樹林帯もこの台地も、全部崩落土砂・岩石でできた。小渋川の流路も変わってしまった。被災後に呆然と立ち尽くす子どもの写真が、資料館にあった。

 

秋葉街道の南行きは、地蔵峠を越えて飯田市上村・遠山郷に至る。しかし地蔵峠は崩壊につき通行止めが無期限に続いている。なので今日は地蔵峠直下のジオサイトまで行ってから、戻って北へ(高遠へ)向かいます。ちなみに高遠側の分杭峠も工事中で通行止めだが、土日は休工で通行可となる。だから今回それに全ての日程を合わせてきたのです。

地蔵峠側の通行止め地点↓

 

通行止め地点の南アルプスジオパークはこれです。中央構造線安康露頭。ここはすでに小渋川支流の青木川。なお中央構造線と糸魚川-静岡構造線は異なるということを、今一度思い出しましょう。

なお、ここまでの道のりは激隘路区間が多くて離合困難。シーズン休日の遅め時間帯は避けたほうが無難です。幸い1台もすれ違わなかった。7:45到着。

 

駐車場から河原まで、下ること5分。荒涼とした河原だが、どこに露頭があるのだろう。

 

対岸に見えるあれか? 写真ではもっと露出してるようだが。そうです水害状況によって、河原も大きく変貌するとのこと。今は河原が優勢なのです。中央構造線が見えてくるでしょうか。

 

しかし上流の堆積土砂があれでは、この先埋まる一方ではないだろうか。気候変動はジオパークの露頭を包み隠してしまうかもしれない。埋まっても、困ることはないけれど。

 

再び北へ、のんびりと景色を眺めながら走っていく。元々この秋葉街道はランニングで旅しようと計画を立てたのだった。いつでも実現はできたのだが後回しになってしまい、ようやく棚から取り出された時にはドライブに焼き直し。塩の道の一部として、思い入れがあった。

途中にはリニア新幹線の補助トンネルの作業現場があった。某県知事とか某県知事-2とかは本当に迷惑な存在だった。気候変動だけじゃなくて、おかしすぎる。

新小渋橋の南詰にある、下青木薬師堂に着いた。石仏が並んでいる。

創建は平安時代に遡るとのことで、長々と由緒書があった。そして下伊那北部観音霊場の札所でもある。さっきの霊場とは違うようだ。こういう霊場を線でつないで巡礼する人は、もう皆無に近いはず。

 

国道の隣りの、旧道の小渋橋を渡っていく。これが小渋川本流で、この奥が赤石岳小渋川ルートになる。二十歳の頃に登ったルートだ。何年前とは言いませんが。

 

対岸を少し上流へ行くと福徳寺がある。小堂が建つのみで、石仏群がある。

秋葉大権現の石碑が見えるが、秋葉燈籠などはないのが不思議なくらいだ。

 

境内から対岸の山を眺めると、真っ白な露頭が見える。地形図で鳶ヶ巣というあたり。奥茶臼山の北端にあたる。異常なほどの白さだ。

これは鳶ヶ巣大崩壊地と呼ばれ、白いのは人工的な吹付工法らしい。堰堤群も見える。

 

新小渋橋の北詰には旅館赤嶺館があり、ここに泊まる計画をしたこともある。その向かいの高みには大磧神社がある。そこへ登っていくと、人の住まなくなった民家と大西山大崩落が見えた。

 

大鹿村では江戸時代から大鹿歌舞伎(地芝居)が催されてきた。大磧神社には歌舞伎舞台がある。重要無形文化財にもなっていて、今も引き継がれる郷土芸能である。ここに村人が集まる。

拝殿の梁に見つけた龍。

 

境内の奥に数体の石仏あり。真ん中は蚕神である。

丸彫りの蚕神像、写実的で美しい姿だ。

 

いろいろと見ている内に9時半を回ったので、ろくべん館中央構造線博物館を見ていくことにします。まずこちらから。大鹿村民俗資料館です。

切り絵で大鹿歌舞伎が描かれている。ろくべんとはどういう意味だろう。

 

これがろくべんです。歌舞伎見物には弁当が欠かせない。この弁当を「ろくべん」と呼ぶ。数段重ねになっていて、歌舞伎よりも食べる方に夢中になりそう。もちろん酒も飲んだでしょう。

 

養蚕道具も展示してあった。

製材している様子。その他いろいろあって、勉強になる場所でした。無料です。

 

次は隣りの中央構造線博物館へ。こちらは500円。庭は岩石の展示場になっている。

 

中央構造線は目に見えない部分もあるし、完全に理解するのは難しいです。風景として面白いわけでもなかったりする。

口で言うより、絵で見たほうが早い。

 

仁王立ちしているのではなくて、中央構造線をまたいでいるのです。何をまたぐかという概念が難しいが、内帯と外帯をまたいでいる。すごいことですよ。

 

群馬の庭石の三波石か。

さっき見てきた通行止めの安康露頭に関係する石か。

山に登ったら私はいつも岩を見ていたし、今でも見ています。ただしそれは攀じる対象としての岩壁ね。しかし聖岳東尾根を登った時は赤色チャートが落ちてないかと、よく見て登った。拾ってきた石ころが一つ、窓際に置いてある。

 

岩石は難しすぎて、と笑ってます。

 

外庭の一角に電子基準点がある。どういう役割か飲み込めてないが。

 

さっき見てきたろくべん館大西山大崩落。中央構造線は1億年というオーダーの話で、大崩落からはまだ百年も経たない。酷暑の夏のサイクルは、まだ始まったばかりだ。

 

これにて大鹿村役場以南の話は終わりです。さらに秋葉街道を北へ、ハンドルを進めていきましょう。