失われた時を求めては、アルベルチーヌ、やベルゴット、やスワンのように特定されているモデルが多い。たぶん、プルーストがほんとうに描きたかった事というのは私には興味がないのかもしれない。それを描くために必要な前提として書いたものが、私には非常におもしろかったということなのかもしれない。コンブレ―を読んだ時には実におもしろかったし、ゲルマントのほうまでで充分だったような気がする。健康で、女性(異性)にしか興味のない私には、ソドムとゴモラ以降はどうでも良いことのように感じられたのかもしれない。

何となくMozartのレクイエムと似たような感じがするのかもしれない。

Mozartのレクイエムの「ラクリモサ」までが、「ゲルマントのほう」まで。

「ドミネ・イエス」から、かなり質が落ちる。

「ソドムとゴモラ」からも、似たように質が落ちるというのが私の感じ方のようだ。