〈役に立たないこと、一見、意味のないことを

やらなければいけないという学問の基本〉

 

資源ゴミに出す前にザッと再読した、

佐藤優著『人間の叡智』(文春新書2012年刊)

の中の言葉。

 

結局、こういうことがわかってないから、

いかなるケースにおいても、有形のものしか視野に入らず、

コスパ云々という話になってくる。

コスパという言葉は、その嫌な側面が、

最近ちょっと気になっている。

 

それから、もうひとつ。

著者は、この時代を〈新・帝国主義の時代〉と呼んでいるのだが、

新・帝国主義に対処するには、

古典を読むこと、

小説的な教養を身につけること、

と記されているくだりに納得した。

 

自分が学問に目覚めたのは、40代になってからだ。

それまでは本はいちおう読んでいたけど、身が入ってなかった。

 

きっかけは、早くから学問に目覚めていた後輩が手引して、

自身の大学の講義に潜り込ませてくれたことである。

なぜそういうことになったのかは記憶にないが、

とにかく自分は若い学生に混ざって、

「生活史」や「哲学」などの講義を聴いたのである。

 

どの講師の話も、心に染み入るようだった。

大袈裟ではない。

何かを学ぶ、知的好奇心を充たすということは、

なんと楽しいことだろうと感銘を受けた。

 

別の大学では、別の後輩が取り計らってくれて、

大岡信の講義にも紛れ込んだ。

綺麗なよく通る声、淀みない語り口が絶品だった。

 

目から鱗が落ちて、

大学時代に読もうとして、怠慢ゆえに読まずに放置していた、

ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』も、

書棚から取り出した。

 

いろいろなジャンルに興味が湧くなかで、

いちばん引き込まれたのは、部落差別問題である。

開かれた社会になったはずなのに、

なおも根づよく残る由々しき差別に、何より怒りを覚えた。

 

沖浦和光氏の著作から多くを学んだが、

沖浦氏の死後出版された全6巻の著作集(現代書館)を買ってあるので、

あらためて精読しようと思っている。

 

部落差別にまつわる最初で最後のエピソード。

小学生のとき、何かの折りに母親が、

近所の肉屋の若主人のことを、

こういうことを言ってはいけないんだけど、

と前置きしたあと、

あの人はこれだから、と言いつつ、

ちょこっと指を4本差し出した。

 

何のことだかさっぱりわからなかったが、

説明を求めてはいけないような気がして聞き流した。

しかし、母親のその意味ありげな仕草が印象的だったので、

そのときのことを、ずっと忘れなかった。

 

その若主人は、銭湯でよく見かけた。

おとなしくて優しそうで体格のいい人だった。

悪い印象なんてなかった。

 

部落差別に限らず、他の差別も、社会に深く根を下ろしている。

近い将来、根絶やしになりそうな気配もない。

それを思うと憂鬱どころか絶望的な気分になる。

不快きわまりない人間社会。

 

70年近くも、よく生きてきたと思う。

生真面目な性格だったら、

そうはいかなかったかも知れない。