街頭テレビは知らない。

しかし、自分が幼少の頃も、

まだ各家庭にテレビが備わっている時代ではなかったし、

当然ながら自宅にもなかったし、

テレビが観たくなると、

町内の金持ちの家に押しかけていた。

 

その頃相撲が好きで、

場所が始まると、金持ちの家ではなく、

近所のお好み焼き屋に欠かさず陣取り、

そば・うどん抜きの薄っぺらなお好み焼きと水だけで、

粘りに粘って、いつも幕内の全取組を観ていた。

というより、店主のおばさんの好意で、観させてもらっていた。

 

当時は、いわゆる栃若時代。

栃錦も初代若乃花も、強くて個性が光る関取で、

まさに50年代のヒーローだった。

自分は、取り口が派手な若乃花を、熱烈に応援していた。

 

59年の御成婚は、

母親が仲良くしていた、小柄で可愛らしい奥さんのいる、

近所の家に観に行った。

小さな白黒テレビに映し出された華やかなパレードの光景を、

いまも断片的に覚えている。

 

しかしそれにしても、あの頃のミッチーブームは、

言葉で説明できないほど、すさまじかった。

若き日の美智子妃は、まぎれもなく日本国史上最高のアイドル。

もう2度と彼女に匹敵する人は、現れないに違いない。

 

自宅にテレビが入ったのは、たぶん御成婚の翌年だった。

しかし、喜んだのもわずかな年月、

広島市内の有名中学を目指す受験勉強がやがて始まり、

夜の時間・休日の時間がすっかりそちらに当てられて、

あるいは当てられたフリをしなくてはいけなくて、

テレビはほとんど観れなくなった。

 

中学に通い始めると、

まだ原爆の悲惨な記憶を生なましく留める広島駅経由での片道が、

ゆうに2時間かかり、

宿題もたくさん出されたし、

さらにテレビどころではなくなった。

 

中高一貫教育だったから高校時代もおなじ。

学校の勉強は御座なりになってきてはいたが、

後半は美術系予備校に通うようになったりして、

やはりテレビの前に腰を下ろしたのは、

ごく短時間だった。

 

浪人した2年目からは、アパートでの1人暮らしが始まり、

大学・社会人とラジオだけの生活が長いこと続いた。

 

そして今、テレビはすっかり部屋の置き物と化している。

暇があるとテレビを観ていた時期もあるにはあったが、

総じてわが人生は、

幸か不幸か、テレビとは縁の薄い人生だった。