前回の続きです。運動不足の身体をおして狸谷不動院へ行ったのには目的がありまして。



昨年やはりこちらへ散歩に来た際、急な坂道を登る途中、


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私の息子が見つけました。



「あーあったあった、これ見つけに来たんか?」


「え、何が?」と私


そこには祖父の名が彫り込まれた石柱が・・・


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それは御供えをすると刻まれる類のものだとはすぐわかりました。


ずーっと目を凝らして見てると雅号のものまで


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これらと他にもう一本、計三本の石柱がありました。


生前の祖父の悩みは病弱な身体。私のかすかな記憶ではすでに寝たきりでしたし、早くに亡くなられました。まだしっかり歩ける時にここへお参りに来てたのか、病床よりお布施だけしたのか・・


いづれにしても、こんなところで祖父の思いの込めたものに出会えるとは思いもよりませんでした。



息子が見つけてくれたのも何か、墓参りのたびに一生懸命墓掃除をしてくれる曽孫への祖父からのメッセージやったんかな、との思いが込み上げてきました。


遺品をじっくり見ていて文芸に秀でた祖父のことはよく知っています。


私の曽祖父が富山にいる頃、富山藩に伝わっていた伝統的な芸術「細川流盆石」を家元として受け継ぎました。
細川三斎公が始めその後富山藩に伝わったといわれています。黒い石と白い砂で水墨画の様な風景を形造る、芸術。


その後を継ぎ家元として京都御所へ出向き外国からの要人へ披露したり、教えたり、その普及活動に尽力され、細川宗家との親交も厚く、細川熊本県知事からの感謝状が誇らしげに飾ってあったのを覚えています。


今は残念ながら細川流は祖父の正統からは離れた団体となってますが、生前の祖父の家元としての様々な活動、本業である清水焼の原料陶石を安定供給し産業に尽力する仕事、どちらも私にとっては誇りです。


そんな祖父に会うためにまた、ここへお参りに来たわけです。


清水焼の良さ、古きものを残していく良さ、を闇雲に伝えて、自己満足で終わるのではなく、もっともっと見識を深めて、勉強しろ、と叱咤激励を受けている気がして、気持ちを新たに山を降りてきました。


しかし、
その帰り道で私は祖父の生きた時代に比べて日本人の文化を思う「程度」が地に落ちていることを痛感させられる光景にであいます。

ガックシ・・・と肩を落とし次回へ続く



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