元気があればなんでも出来る! | 山本優弥の『みんなのおかげじゃけ~』

元気があればなんでも出来る!

とまでは思いませんが

元気がないとなんにも出来ないのは確かです。

幸せを感じる時は?と聞かれたらみなさんは何と答えますか?

。。。

僕は生きていることが幸せです。毎日何をしていても幸せです。
本当です。

。。。と答えてみて。。。面白みがないと言われた場合は。。。

高級な料理を食べてながらお酒を飲んでいる時!スポットライトの当たるリング上で勝者コールを受けている時!
とか答えるでしょう。。。

でも、怪我後や手術後に自分でベッドから起き上がれたことや自分で歩いてトイレに行けたことが幸せだと感じたことを思い出す。

食への有り難みは15歳から始めた2、3ヶ月に一回ある減量という儀式を乗り越えることで意図的ながら経験させてもらっている。

体を動かしている当たり前の毎日から、いつも通りには体を動かせなくなる状態へと追いやられた時には、階段から突き落とされたような気持ちになった。自分が階段を上がっていたことにその時初めて気づいたりした。(実際に階段から突き落とされたことは今のところない)

まだ26年しか生きてない自分が「人生には波がある」等と感じるのだから、この波とやらはきっとすべての人の人生にあるものなのだろう。

今の日本の状況と個人の人生を比べてしまうと規模が違いすぎるけど、自分が振り返れる確かなものがあるとしたら自分が経験した自分の人生だろう。

豊かになったことが豊かと感じられていない、贅沢が贅沢と感じられなくなっていくのを自分自身で感じていた僕は、身のまわりのありがたみを忘れないよう、感謝の言葉を積極的に口に出すようになっていた。
自分の発する言葉は自分の耳に入ってくるから、自然に再確認出来る図式になっている。

格闘技を通じ、当たり前が制限される生き方をさせてもらえていることで、意志の弱い僕が、何通りもの人生を歩んでいるおかげで度胸がすわった。

当たり前のことを幸せと感じよう!と意識して得ようとした幸せは、自然な幸せじゃないと思う反面、形や理屈から入ることで幸せを探す手段もありだなという気がしている。

僕はいろんな経験によっていろんな気持ちにさせてもらえたおかげで、いろんな人の気持ちを解ろうとすることが出来ている感覚を持てたことは非常に幸せなことだと感じている。

これは一人で掴める感覚では決してなくて、小さな幸せに気づける能力をくれた人達のおかげ。

気のせいかもしれないが、自分は本当の幸せを知っている気がしている。

感謝があふれている環境にいることが大きい。

感謝しようと思って感謝しているのではなく、感謝させてもらえていることを実感出来ることに幸せを感じている。

自分の人生に波があると表現をしたけど、そのあらゆる波に飲まれることなく一部始終を見ていて報告してくれている山本優弥という男にも自分は感謝している。

戦後の日本は、ひたすら経済的に豊かになることを目指して突き進んできた。

もちろん、それが幸せになることだと信じて。

経済は格段に豊かになったことは確かだが、それによって幸せになったと実感している人は意外と少ないはず。

現代人は、「ものは豊かになったが心はまだまだ満ち足りてない」といつも何かを欲している気がする。

やはり人の欲望とは際限のないものなのかもしれない。

昔はいまよりもずっと貧しかったはずだが、身の回りにつつましい幸せがあり、それをみつけて幸せを感受する人がいた。

経済的に貧しい方が心が豊かで、経済が豊かになっていくにつれて心が貧しくなるなんて方程式が出来上がるのは出来ることなら避けたい。

そうすると、幸せを見出だす矛先を目に見えるかたちある物だけに向けるよりも目標等を自分の心にも向けながら生活するべきなのかなと僕は思っている。

人生という道に平等にころがっている幸せを、たくさん感受する能力がある人を幸せな人なんだろうなぁ思っている。

現代人は、もっともっととより大きな幸せを求めたがっている。

これは悪いことじゃない。

おかげで日本が変化し、過ごしやすい環境になっている。

しかし、自然の上につくられたものが自然に破壊された。

一生懸命作った料理を出したけど気に入らない大黒柱が、ちゃぶ台ごとひっくり返した的な。

なんなー!せっかく作ったのにー!と言い返すのは簡単だが

今回はそうもいかない。

麻痺しつつある現代人の味覚を修正する為のチャンスを与えられたんだと思いたい。

自然があってすべてがある以上、自然の機嫌を損なわないように生活しないといけなかったのかも。。。

自然の力はあまりにも大きくて素晴らしくてこわい。。。

今の日本をやっとの思いで元に戻したとしても

またひっくり返させる気がする。

人間一人一人の中身が変わらないといけないのだろう。

格闘技を通じて自分が経験した入院や手術は、出来ることなら経験しないほうがいいもの。

痛いし恐いし辛いし。

じゃけど時間がたって、あの時があってよかったと思えるのは実際に得た経験として心に刻めた証。

傷だって、きれいさっぱりに戻してもらった場合、僕みたいなヤツは何もなかったことのように忘れてしまう。

せっかく経験したことを全部忘れて元に戻ってしまうなんてのは、大怪我するより手術するより恐いこと。

少し残った傷あとを見るたびに思い出し、雨の日に痛むヵ所に手を当て思い出す。

そうやって前に進んで来た。

今回の地震も、世の中が良くなるように自然が課題を出した。

何かを変えるために一回壊した。

これなら嫌でも変わるよねって。。。

この地震がなかったらなかったものは多い。

ここから日本が今まで以上に進化して「あの地震に救われたと」言える日が来るかどうかは生かされた人間一人一人が決めることだと思うから、自分を見つめなおしたいと思う。

生かされて、小さな幸せに気づく大きなチャンスをもらったからには、当たり前のことをバカにせずちゃんと前向きに生きようと思う。

今の自分に命があるってことはそういうことだと解釈する。

明るいはずの晴れた昼間に暗い街
人間がつくったこの光景はあかるくてあたたかい



結局何が言いたいんか解らんのじゃけど解らんなりに思ったことを書いてみたやつからの投稿