菜根譚 前集 四四
大所高所から世の中を見る
「世間の中で、一角の人物になろうとするなら、他の人より一歩高い所に立っていなければならない。そうでなければ、あたかも、塵の中で衣を振るい、泥の中で靴を洗うようなものである。到底塵も泥も拭えるものではない。
世の中を、無事に過ごして行くためには、常に一歩だけ世間の人よりも退いていなければならない。
さも無ければ、夜火の中に自ら飛んで入る蛾のように、焼け死んでしまう。
また、さも無ければ、牡羊が、垣根に角を突っ込んだ様に進退窮まってしまう。
こんなことでは、到底安楽に生きて行くことはできない。」
「汨羅(べきら)という川の畔で、漁師が、驚いた。
「あなたは、あの有名な、楚の国の首相の屈原様ではないですか。」
と言うと、屈原は、「いかにもそうだ。」、と答えた。
漁師は、何でこんな辺鄙な田舎にあなたのような国の重要人物が居るのですか。」と尋ねた。
屈原は、「この濁世で、政治家も官僚も世の中皆、汚いやつばかりになってしまった。高潔な者は俺一人しかいなくなった。こんな汚れた政界に最早、我慢ならない。」
と答えた。
漁師は、
「屈原様、世の中は、川の流れと同じように、一人棹さしても変わる者じゃない。多少のことは、目を瞑って、人との協調も大事にしなければ、政治家なんかやって行けないでしょう。」と言った。
屈原は、
「馬鹿を言うな。お前のようにだらしない奴らばっかり居ることが、俺には本当に我慢ならない。」と言い放った。
漁師は、あきらめて、船を漕いで遠くへ立ち去ってしまった。
この後、屈原は、悲嘆に暮れ、川に身を投げて自殺してしまう。死んでも高潔を保つ一念居士の象徴となった。
屈原の生き方は、儒教の教えであり、漁師の生き方は、道教の教えであると、解かれている。
今日まで、この政治家の在るべき姿論争は続き、高潔か、清濁合わせ飲むか、議論は、止まない。野党は、高潔を望み、与党は清濁を好む傾向は、今昔変わりはない。
「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ、巫山(ふさん)の雲は、乱れ飛ぶ 混濁の世に 我立てば 義憤に燃えて 血潮湧く」
憂国の情断ち切れず、汨羅に身を投げた屈原の悔し涙の波は、この昭和の御代にも及び、なお荒れている。
風紀は乱れ、儚い女性達は雲のように宛て戸無く彷徨い、道義は地に落ちている。この時、
義に報じるため、私は、決起する。
この作者三上は、五・一五事件(一九三二年)で犬養首相を襲撃し死刑囚となる。
後釈放。
その後の二・二六事件など、少数による世直しは、その思想性は、屈原の高潔性に発する。
つまり議会政治の多数決によると、勝ち目が無い軍部は、高潔であることを自己賛美し、屈原の死を厭わない顛末を想起させる。
死を恐れない人生態度は、義の前に、一殺多生のテロ肯定思想化と進む。
これ以降、政党は、軍部の前に屈する姿勢となった。
3 魚父の辞は、単に鬱病で自殺した屈原の事実を描写したに過ぎない。
これを歪に美化し、軍人のメンタリテイを、高潔こそ最良の価値としてしまった。以後の歴史を血に染めている。