大久保利通の二男

吉田茂の妻の父親



菜根譚 前集一九


 才を見せず磨きは掛ける 


名誉な働きや、見事な業績は、自分ひとりで独占するものではない。その一部を、他人に分け与えるようにすると、いつの間にか、危害は遠ざかり、天寿を全うすることができる。

 恥ずべき行為や、評判の悪い出来事も、全部他人の責任と押し付けてはいけない。一部を自分が引き受けるなら、静かに落ち着いて、人格を磨き高めることができる。


1、 「達すれど奢らず、貧すれど窮せず。心は高く、身は低く。」天寿の秘訣。

2、 天寿を全うした長老政治家の明治以降の異様な歴史。現実は、「憎まれっ子世に憚る。」

牧野伸顕(1861)87歳。大久保利通二男。一一歳、岩倉遣欧使節に参加。米国フィラデルフィア中学卒業。マントアアカデミーに四年半滞在中、クエーカー教徒(米国独立運動ピューリタン派)になる。三菱のグラバーと親交。ジャデーン・マジソン商会(アヘン輸出業)が資金元となる。日本総代理店は横浜、吉田商会。吉田健一の養子茂と、長女雪子結婚。茂は総理に。

文部大臣時代、クエーカー教徒新渡戸稲造を一高校長にする。同じ薩摩の大山巌と懇意。岩倉遣欧使節に参加した津田梅子(クエーカー教徒)の友、会津藩の山川捨松(留学中クエーカー教徒)を大山の後妻にさせる。その兄、山川健次郎(クエーカー教徒)を東京帝国大学の総長にする。大正天皇のお妃選考委員長の大山に、外国人朱貞明を会津藩出身の九条節子(クエーカー教徒)と称し推挙しお妃に選定。皇室は遺伝上の事故時、外国人を持って、皇統の維持を図る。節子を貞明皇后としたが、皇后は元々シスターなので、黒い洋装ばかりで和装は一度もなかった。このときから、歴史上初めて天皇家は一夫一婦制となり、側室制度が廃止となった。


根も葉もないデマで、元老混乱(日本の本当の黒幕、鬼塚英昭)

東久邇宮稔彦(なるひこ)は、「大正天皇には、子種が無かった」と証言。しかし、貞明皇后には、四人の子供に恵まれた。ここでは、優秀な遺伝子を皇統に招く幸があった。源氏物語の文化では、何の衒いも恥じらいも無く可能な行為であった。

第一子は、西園寺八郎との子供、迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(昭和天皇)。第二子は、有栖川稔彦との子供、淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(秩父宮)。第三子は有栖川威仁との子供で、光宮宜仁(てるのみやのぶひと)親王(高松宮)。第四子は牧野伸顕との子供で、澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)。

これに加えて、大室寅之祐という、長州田布施町(岸信介九〇歳の奇兵隊士を、明治天皇一六歳の時、伊藤博文が、天皇にすり替えた、とするものである。


田中光顕(九五歳)土佐勤皇党、高杉晋作に仕える。「どんな時も困ったという」が教え。

龍馬暗殺後、岩崎弥太郎は田中を三菱の顧問とし、影の諜報機関を作り、常に会社と身の安全を図った。警視総監後、一一年も宮内大臣を務め、天皇の名において、人事を掌握。田中が、常に言う「公家は、責任を取らない。脅しにあまりに弱い。考えがいつも変わる。」「だから藤原摂関家以来何代も家が続く。」であった。田中が、利用し尽したのが、牧野伸顕、西園寺公望(九〇歳)であった。脅す背景は、常に、天皇の出自と貞明皇后の出産の謎であった。  


元老制度の弱体化。憲法外機関で、国家の最高意思決定機関。首相の推薦機関。伊藤博文、黒田清隆、山県有朋(八五歳)、松方正義(九二歳)、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人に限定山県が大正一一年に死亡した後は、昭和一五年まで、西園寺一人で、首相を決めた西園寺は、中江兆民とパリで一〇年間左翼思想を学ぶ。優柔不断、リベラルな西園寺は、軍と右翼が苦手。同じ性格の近衛文麿を総理にする歴史上の失敗を犯す。

牧野は、久邇宮の良子(ながこ)を昭和天皇の妃とする。後、久邇宮は陸軍大将。昭和天皇は、摂政となる。結婚式に、頭山満を招待し、「国民の元老」という正式称号を天皇の名で授与。右翼国本社の平沼騏一郎と田中、頭山連携。これで軍、皇室、内閣、右翼の固い連携の完成へ。これら工作の資金源は三菱。他財閥の安田善次郎は暗殺、三井の団琢磨も暗殺。

長老、元老らによる派閥政治は、密室、不透明、理不尽がつきもの、しばしば国家の方針を誤る


田中光顕は、高知県佐川町出身

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