菜根譚 前集一九
才を見せず磨きは掛ける
「名誉な働きや、見事な業績は、自分ひとりで独占するものではない。その一部を、他人に分け与えるようにすると、いつの間にか、危害は遠ざかり、天寿を全うすることができる。
恥ずべき行為や、評判の悪い出来事も、全部他人の責任と押し付けてはいけない。一部を自分が引き受けるなら、静かに落ち着いて、人格を磨き高めることができる。」
文部大臣時代、クエーカー教徒新渡戸稲造を一高校長にする。同じ薩摩の大山巌と懇意。岩倉遣欧使節に参加した津田梅子(クエーカー教徒)の友、会津藩の山川捨松(留学中クエーカー教徒)を大山の後妻にさせる。その兄、山川健次郎(クエーカー教徒)を東京帝国大学の総長にする。大正天皇のお妃選考委員長の大山に、外国人朱貞明を会津藩出身の九条節子(クエーカー教徒)と称し推挙しお妃に選定。皇室は遺伝上の事故時、外国人を持って、皇統の維持を図る。節子を貞明皇后としたが、皇后は元々シスターなので、黒い洋装ばかりで和装は一度もなかった。このときから、歴史上初めて天皇家は一夫一婦制となり、側室制度が廃止となった。
東久邇宮稔彦(なるひこ)は、「大正天皇には、子種が無かった」と証言。しかし、貞明皇后には、四人の子供に恵まれた。ここでは、優秀な遺伝子を皇統に招く幸があった。源氏物語の文化では、何の衒いも恥じらいも無く可能な行為であった。
第一子は、西園寺八郎との子供、迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(昭和天皇)。第二子は、有栖川稔彦との子供、淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(秩父宮)。第三子は有栖川威仁との子供で、光宮宜仁(てるのみやのぶひと)親王(高松宮)。第四子は牧野伸顕との子供で、澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)。
これに加えて、大室寅之祐という、長州田布施町(岸信介九〇歳)出身の奇兵隊士を、明治天皇一六歳の時、伊藤博文が、天皇にすり替えた、とするものである。
龍馬暗殺後、岩崎弥太郎は田中を三菱の顧問とし、影の諜報機関を作り、常に会社と身の安全を図った。警視総監後、一一年も宮内大臣を務め、天皇の名において、人事を掌握。田中が、常に言う「公家は、責任を取らない。脅しにあまりに弱い。考えがいつも変わる。」「だから藤原摂関家以来何代も家が続く。」であった。田中が、利用し尽したのが、牧野伸顕、西園寺公望(九〇歳)であった。脅す背景は、常に、天皇の出自と貞明皇后の出産の謎であった。