菜根譚 前集五
忠言と甘言を聞き分ける
「いつも進んで、他人の忠告を聞くように努め、そのため心に課題を残しているならば、それでこそ、徳を積み修行の実をあげうる練磨の砥石を得たようなものである。
逆に、始終褒められて、悦に入っているようでは、わざわざ、自分の人生を、猛毒のなかに沈めているようなものである。徳は疎か身を滅ぼしてしまう。」
人間は、よほど心丈夫に、緊張感を持たなければ、安逸に流れ、放従を貪ることになりがちである。そのような己を正してゆくには、身近な人の忠告が何より大事である。
三、利休はなぜ切腹させられたか、
利休は、豊臣秀吉政権の裏番頭となる。大友宗麟は、「内々の儀は宗易(利休)、公儀は宰相(豊臣秀長)」「宗易ならでは、関白様(秀吉)へ一言も申し上ぐる人これ無し」という。
利休七哲。
古田織部、細川忠興、芝山監物、高山右近、蒲生氏郷、瀬田正忠、牧村利貞など大名達が弟子となる。
ⅰ交易の独占を企図した秀吉に対し、堺商人の側についた利休の対立。
ⅱ朝鮮出兵を批判。
ⅲわび茶の利休に、大名茶の秀吉 路線対立。侘びは、枯れるだけではない。その中に艶と輝きが要る。複数の女性が常に周りにいた。
ⅳ秀吉が利休の娘に手を出した。
ⅴ大徳寺の山門の二階部分に自分の木像を設置して秀吉に下をくぐらせた。
それにしても、力を付けた腹心を手放し、自害させるサディズムは、以後家臣の離反につながる。
四、秀吉の側室は、①甲斐姫②京極竜子③月桂院④香の前⑤三の丸殿⑥姫路殿⑦広沢局⑧摩阿姫⑨南殿⑩南の局⑪淀殿など。
正室のねね(一五六一年生)は、秀吉より三二歳年下の二二歳の淀殿(一五六九年生)と厳しい対立関係。しかし、秀吉は、若くて美貌の淀にぞっこんであった。また、淀君は二〇歳で鶴松を生み、二四歳で秀頼を生む。完全に、秀吉は、淀の言うまま。
人生においては、糟糠の妻ほど苦言を提してくれる者はいない。特に、ねねは器量は良くないが、先見の明ある人だった。あるとき、豊臣の家臣山内一豊は、関ヶ原で西軍に付くべきか、東軍か迷っていた。賢明な一豊の妻お千代は高台院様をお尋ねし内密に打診した。そこで徳川が必ず勝つと知って、一豊は東軍に加勢し論功で土佐二四石を獲得した。
良妻ねねを遠ざけたことは、秀吉最大の敗因であった。
政治家にとっての女は、若さより、賢明。美貌より、運。古女房ほど大切にすべきこと。
忠言ほど人生に不可欠なものはない。優先順位を誤らぬようにご注意。
以上
山内一豊の妻、千代の銅像
高知城