菜根譚前集二 純朴で世俗には妥協しない 2018.11.20
「世事に疎い者は、汚れることもまた少ない。社会を深く熟知したものは、悪巧みも多い。
従って、君子、立派な人物になろうとする者は、余り世の中に熟達しているより、純朴魯鈍の方がよい。また、調子がよく使い勝手が良いより、君子は世俗に妥協しない頑固者の方がよい。」
一、こうした人物の典型が、吉田松陰であろう。松陰は無位無冠で維新回天の偉業を為す。
1、狂 「諸君、狂いたまえ」自らを「狂愚」と名乗る。松陰が、次の世代に残した言葉こそ狂。
「志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない」妥協なき志こそが必要、と説く。
2、狂の一《松陰の思想》
①「尊皇攘夷」、水戸学、朝廷中心の集権国家。②「飛耳長目」、情報の重要性。二七歳で松下村
塾を情報交換の場とする。③「草莽崛起」、民衆よ立ち上がれ。平民を教育 ④「至誠通天」、至
誠にして動かざる者なし。取り調べ官吏に聞かれてもいない、老中(間部詮勝)暗殺の必要性を
解き、安政の大獄で死刑執行。三〇歳没。前科五犯。人生は終始獄か謹慎の身。
3、狂の二《友情》 熊本山鹿流兵学の友、宮部鼎蔵に東北遊学約束。藩許可下りず。脱藩して行
く。宮部は、どん引き。
4、狂の三《密航》 二五歳。黒船に盗んだ小舟で密航。弟子金子重之輔同行。ペリー航海記に、
「厳しい国法を犯したこの不幸な二人の行動は日本人に特有なものと信じる。日本人の激しい好
奇心をこれほど現すものはほかに無い。日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来は、
何と夢に満ちた広野が、何と希望に満ちた期待が開けていることか。」
5、松蔭作の魂の叫び、短歌。今も人に感動を与える。
心情の吐露 『かくすれば、かくなるものと知りながら、止むにやまれぬ大和魂。』
世間への辞世『身はたとえ、武蔵野野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂。』(留魂録)
家族への辞世『親思う心にまさる親心、今日の訪れ何と聞くらん』(永訣書)
二、過剰評価の松蔭(「明治維新という過ち」原田伊織著)
1、松下村塾は松蔭が主宰はしていない。 松蔭の叔父、陽明学者玉木文之進が設立運営してい
た寺小屋であった。一八三〇年、松蔭は下級武士杉百合之助の次男にうまれ、寅之助と名乗る。
後、山鹿流儀兵学師範吉田大助の養子となる。吉田が他界後、その弟玉木が、養育に当り、松下
村塾に在籍。一八四二年藩の代官の玉木が陽明学と山鹿流儀の兵法を子弟に教授する寺子屋とし
て設立した。松蔭は、そこで徹底した厳しい教育をうけた。一八五四年から、約三年間、密航の
罪で野山獄に繋がれた松蔭は、この時期毎日塾に通った。勉強中、若い娘を見ると身体が火照る。その自分に嫌悪した。そこで竹の錐を腕に差し血を抜いて下半身の疼くのを止めたという。
2、山県有朋の歴史創作。 安政の大獄で松蔭は死刑。大老の命ではなく、あまりに過激な
テロリズム礼讃の松蔭は長州藩の規律を乱すと、藩が大老の名を借りて処刑したのが真相。山県
は、明治新政府の中で自らの身分が中間(ちゅうげん)という足軽より低い身分であることを苦
にしていた。そこで、松蔭を神格化し、松蔭の身内でかつ弟子である山県が、思想的精神的正当
を受け継ぐ立場であると、唱えた。関係者はほぼ他界しており、この策謀は想像以上に功を奏し
た。大義に殉じた松蔭を尊敬するなら、即ち、山県を敬うことになったのである。
3、司馬遼太郎史観。ノモンハンに従軍した戦車部隊の司馬は、日本の粗な戦車砲。危機感のない将校。国家や政府政治家に不信を抱いた。そこで深く考えが至ったのが、明治はこんなはずではなかった。明治を考察したところ、司馬が正に求めていた国家があった。その歴史観が司馬小説。