幕末から昭和まで広く日本人の指導者たちが読み反芻してきた名著、菜根譚を私なりに噛み砕いて
自分自身の心の錬磨としたいと思い書き記しました。

戦前、陸軍士官学校の教科書でした。
今の中学生くらいの少年たちが学んだもの。遅ればせながら私もと言う構えであります。

昔の日本人は偉い。


前集1.右顧左眄せず。真理をすみかとして生きていく。

誠実に生きるものは、時に不遇である。
けれども、やがて誠実さが周りから評価されて仲間達が繁栄をもたらしてくれる。
これに対し
媚び諂いながら生きるものは、一時は栄える。
しかし、やがて強い者におもねる姿に周りが嫌悪して、仲間は離れてしまう。
やがて寂しい最後が来てしまう。
だから、誠実に生きて行こう!

雑感
西郷隆盛は、若い頃から、運があまり良くない。しかし、彼は生まれつき、誠実でユーモアがあった。
10歳の年、神社のお祭りで子供の喧嘩が始まり、西郷は仲裁に入った。揉み合いの中で、右腕内側の筋を切ってしまい。以後柔道、剣道は無理となる。

役場の給仕に雇われるが、最低の給料。
貧乏は30歳まで続く。薩摩藩主島津斉彬の召使として、江戸に随行。勤皇思想に被れる。
安政の大獄で、島流し。沖永良部島で疫病にかかり脚が動かなくなる。

36歳でやっと仕事に復帰する。
幕末期に活躍。けれども、肥満体で運動は苦手、脚も悪い西郷は。移動はすべて籠。
だが人間が誠実で、生真面目。笑いじょうご。
人にこよなく好かれた。
官軍は、東北戦で山形県庄内藩を滅亡。
西郷は、負けを認めた庄内藩の兵士を殺戮せず引き上げた。

40歳で官軍の大将。
仲間は彼を見捨てない。自分の栄達、利益は度外視。奥さんは、死ぬまで貧乏。
46歳で、西南戦争。自害、城山にて。

死亡を知った庄内藩の人々は、あんな立派な生き方を学びたい。子供達を西郷さんのような人間に育てたいと、庄内藩に伝わる西郷隆盛の逸話を記録して、西郷南洲遺訓、という本を出した。

けして、西郷本人の残した言葉ではない。

この誠実さに、震えるほどの感動を覚える!


本文

菜根譚 前集 真理を住処とする 2020・4・20

道を求めて誠実に生きてゆこうとする者は、ある時は不遇で寂しい境涯になる。

強いものに媚び諂い損得で生きてゆく者は、ある時は栄えてもついには永遠に寂しく痛ましいものになる。

道を求める者が真理に達したなら、世俗をすでに超越していて、さらにはその身が滅んでも次の時代まで及ぶ名声を得ることになる。

だからある時は不遇で寂しくとも、永遠に寂しく痛ましいことにならぬように、強いものに媚び諂う態度を取ってはならない。

1、 人間の生き方

道徳の教科書に書いたようには中々生きていけない。親に孝君に忠、社会のために尽くして、自らは質素堅実。決して貢を焦らず。と行きたい。しかし、現実は厳しい。欲との葛藤、正しく生きる自分と少しずるいがまあいいかの自分の、せめぎあい。凡人は常にこの項に説く理想を座右にすべきであろう。

2、 田沼意次(一七一九~一七八八年)

父は紀州藩の足軽から旗本になった父親の才を受け一〇代将軍家治の側用人と。機を見るに敏、瞬く間に幕府老中に抜擢。これまで側用人から老中になったものはなく、異例の出世を遂げた。その背景には出世のためには手段を択ばぬ賄賂を常としていた。折しも、享保の大飢饉一七三三年、天明の大飢饉一七八八年などの災害が相次ぎ、この危機の対応を誤り、庶民から幕府に批判が殺到した。実権を握っていた意次は、伝統的朱子学を収めた幕臣たちに追われ失脚する。次の老中松平定信は、放漫から緊縮へ寛政の改革を始める。田沼の居城相良城は打ち壊され、江戸と大阪の家財の没収。失意のうちに没する。

3、 西郷隆盛(一八二八~一八七七年)

この菜根譚最初の教えをその通り歩んだ人物がいる。セゴドンである。三六歳までは、可哀そうを絵にかいたような人生であった。①ケガによる身体的ハンデがあった。喧嘩の仲裁をしたとき刀の刃が右腕内側の腱を切ってしまい右が使えず剣術もできなかった。二六歳の時薩摩藩主島津斉彬に仕え重用される。その死後、弟島津久光が藩主となるや、安政の大獄が始まり、沖の永良部島へ流刑。島の牢屋に幽閉され狭い暗い不衛生で足が腐る。大久保利通の計らいで藩に復帰。四〇歳で戊辰戦争官軍の大将となる。四九歳で城山にて割腹死。常に周囲に慕われ、敵方であるはずの東北庄内藩の有志が、西郷のような人物にと子供の教育として「西郷南洲遺訓」を表し後世に伝えた。感動。