菜根譚 前集一 真理を住処とする 2020・4・20
「道を求めて誠実に生きてゆこうとする者は、ある時は不遇で寂しい境涯になる。
強いものに媚び諂い損得で生きてゆく者は、ある時は栄えてもついには永遠に寂しく痛ましいものになる。
道を求める者が真理に達したなら、世俗をすでに超越していて、さらにはその身が滅んでも次の時代まで及ぶ名声を得ることになる。
だからある時は不遇で寂しくとも、永遠に寂しく痛ましいことにならぬように、強いものに媚び諂う態度を取ってはならない。」
道徳の教科書に書いたようには中々生きていけない。親に孝君に忠、社会のために尽くして、自らは質素堅実。決して貢を焦らず。と行きたい。しかし、現実は厳しい。欲との葛藤、正しく生きる自分と少しずるいがまあいいかの自分の、せめぎあい。凡人は常にこの項に説く理想を座右にすべきであろう。
父は紀州藩の足軽から旗本になった。父親の才を受け一〇代将軍家治の側用人となる。機を見るに敏、瞬く間に幕府老中に抜擢。これまで側用人から老中になったものはなく、異例の出世を遂げた。その背景には出世のためには手段を択ばぬ賄賂を常としていた。折しも、享保の大飢饉一七三三年、天明の大飢饉一七八八年などの災害が相次ぎ、この危機の対応を誤り、庶民から幕府に批判が殺到した。実権を握っていた意次は、伝統的朱子学を収めた幕臣たちに追われ失脚する。次の老中松平定信は、放漫から緊縮へ寛政の改革を始める。田沼の居城相良城は打ち壊され、江戸と大阪の家財の没収。失意のうちに没する。
この菜根譚最初の教えをその通り歩んだ人物がいる。セゴドンである。三六歳までは、可哀そうを絵にかいたような人生であった。①ケガによる身体的ハンデがあった。喧嘩の仲裁をしたとき刀の刃が右腕内側の腱を切ってしまい右が使えず剣術もできなかった。二六歳の時薩摩藩主島津斉彬に仕え重用される。その死後、弟島津久光が藩主となるや、安政の大獄が始まり、沖の永良部島へ流刑。島の牢屋に幽閉され狭い暗い不衛生、で足が腐る。大久保利通らの計らいで藩に復帰。四〇歳で戊辰戦争の官軍の大将となる。四九歳で城山にて割腹死。常に周囲に慕われ、敵方であるはずの東北庄内藩の有志が、西郷のような人物にと子供の教育として「西郷南洲遺訓」を表し後世に伝えた。感動。