菜根譚 3

「心は公明正大に、才能はひけらかさず」2019.1

 

「君子、即ち、上に立つ者は、その考えが部下の誰もが知り理解するために、言辞行動は分かりやすくなければならない。

しかし、その才能は、宝物を隠すように、誰にもわからないように、知られないようにしておかなければならない。」

 

一、能ある鷹は爪を隠す。才能ある人が、失敗するほとんどの原因は、その才能から生まれる傲慢さや周りの嫉妬心である。「大賢は愚に似たり」という様に、本当に賢ければ、才能に恵まれていることを表面には出さないものである。

二、組織と才能     部下が組織の一員として働くのは、上司の支持命令、同僚の行いや、周囲の期待などによる。それに答えようとする心情を図るとき、上司が、喜ぶ褒める納得するを、 代償としてしている。この場合、上司に才能がありそれが明白に表に表れ、部下より仕事ができ場合、褒められても喜びは案外半分くらいである。むしろ、平凡な上司が才能 ある部下の仕事に、感動し褒めたとすると、部下は大いに喜ぶことであろう。

   組織とは、 平凡を非凡に変え、また、非凡を平凡に変えることもある。つまり、個人の行為とは異なり、組織は、平凡な上司の元に非凡な部下がいて全体として成果を上げることが予測されている。個人事業より、株式会社など、分業、専門性などでパーツ化して効率良く組織化した仕組みは優位をえる。このように一般に、上司は部下より才能が無いほうが、部下は働きやすいといわれている。

  けれども、もし上司が才能を隠しうる人間であれば、さらに部下は優れた功績を上げる。複数の部下が多方面の功績を上げて組織は成長軌道にのる。

 

三、「風姿花伝」世阿弥(一三六三年)

二一歳、父観阿弥死去、観世流二代目となる。

   室町三代将軍義満は、ライバル道阿弥を寵愛。

四五歳、四代義持は、能が嫌いなため世阿弥を迫        

害。

六六歳、六代義教は、世阿弥を御所出入り禁止。七一歳、将軍謀反の罪で佐渡遠流。

七八歳、一休禅師に救済される。

八〇歳、娘婿金春禅竹の元で死去。

 「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。」   

    能における感動の根源は、「花」である。桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かされるだろうか。

    花は咲くべき時を知っている。観客が最も花を求めているときに咲かせねばならない。

 花は咲き、花は散る。常に変化する美である。花を生み出すのは、幽玄である。闇の中 でこそ光は映える。幽玄の美を知り得ないものは、花を咲かすこともない。知り得ぬ奥深さは、余韻となる。それは、無限となって、心の奥深くを楽しませる。日本独特の美意識である。

「奥ゆかし」の美である。

 

四、人生にもこの趣が重要。世阿弥は終生不遇であったが、其の中で能の集大成を図った。

      現在能の演目二四〇の内、世阿弥作は五〇。全て傑作。世阿弥故に、能楽は二〇〇一

      年世界遺産となる。和歌を詠むように響く言葉、心に染みるメロデイの楽曲は、時代を超えて人々の胸を打つ詩劇となっている。この不遇を幽玄として能の稽古にひたすら従事。世阿弥作「花鏡」に曰く。

「初心忘るべからず。この句三ヶ条口伝あり。

一、是非、初心忘るべからず。

二、時々、初心忘るべからず。

三、老いて後、初心忘るべからず。」

世阿弥の人生は不遇である。しかし、

「長生きしたこと」、

「歴史的作品を残したこと」

を持ってすれば、この不遇こそ、創造の神である。


菜根譚に言う、能ある者の代表が世阿弥である。

また、室町時代と言えども将軍になる者も、能ある者である。

互いに爪を隠していれば、違う世界になったかも知れません。

能ある鷹が、しばしば陥入る損な立場は無駄では無い。不遇、冷遇の時代が世阿弥になければ、花鏡、風姿花伝は、生まれていなかったかも知れません。