菜根譚 前集一 


 右顧左眄せず己の道を行         2018.11.20

 

「おのれ本人の真実一路の道を、真摯誠実にひたすら歩む者は、一時は寂しい思いをするものである。しかし、損得勘定、出世主義で生きる者は、一時は良くとも、やがては永久に寂しい人生となる。

 人生の達人は、決して右顧左眄しない。一時は孤独になろうと己を貫くべし。やがては、理解者が大勢になる。」

 

一、菜根譚の教えの最初  目先の器用さで地位についても実力ではない。その時には、人は誉めそやし周りを囲む。しかし、地位をされば、身の回りに誰もいなくなる。よって、確かな己の道を歩むことが、大切である。

 

二、人間西郷の年表     

 こうした生き方をした代表的人物が西郷隆盛である。

①  一八二八年生まれ。一〇歳のとき、月例のお宮参りで喧嘩が始り仲裁に入るが、一人が抜いた刀が西郷の右腕内側の神経を切ってしまう。以後、武術は諦めざるを得なくなる。柔道選手のような身体付きの西郷だが、相撲も柔道も全くできない事務働きの男であった。

②  一八五三年 二五歳で、給料の低い四一石の下級役場職員(郡方)となる。

③  一八五四年 二六歳。島津斉彬に登用される。江戸に同行。水戸徳川と昵懇で慶喜の部下藤田東湖と会う。斉彬に人生を託す。斉彬の計画の特命を得る。

「一三代将軍家定と篤姫を結婚させる。篤姫は、斉彬の養女である。その上で、斉彬の信頼する水戸徳川慶喜を篤姫の力で一四代将軍にする。」これは、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城などの水戸弘道館留学仲間で勤皇思想、反紀州德川、尾張徳川の、所謂四賢公の水戸徳川側の計画であった。

④  一八五五年 二七歳。極貧、生活苦のため、加治屋町の自宅売却、上之園町に引越。

⑤  一八五八年 三〇歳。井伊直弼大老は、反水戸。安政の大獄で右計画が発覚し破綻。島津斉彬死亡。西郷は僧月照と鹿児島湾に入水自殺。蘇生。井伊直弼、幕府の捕縛を免れるため、奄美大島に逃亡。

⑥  一八六二年 三四歳。藩主は忠義だが、その父久光が藩実権掌握。斉彬の犬猿の弟久光は、西郷嫌い。そのため家財没収の上、沖の永良部島、流刑となる。

⑦  一八六四年 三六歳。大久保利通、小松帯刀のすすめで赦免。島の牢で身体を壊し、足は立たなかったが、這って斉彬の墓参に行く。以後、全て移動は、籠に乗る。

⑧  一八六六年 三八歳。坂本竜馬の周旋で薩長同盟実現する。

⑨  一八六八年四〇歳。戊辰戦争、東征大総督府参謀。勝海舟と江戸無血開城。庄内藩に寛大な処分。

⑩  一八六九年四一歳。これまでの無報酬、無給から昇格。新政府参議となり、給与受領。

⑪  一八七二年四四歳。征韓論敗北。鹿児島に帰国。自宅でくつろぐ。幼年学校など私学設立。

⑫  一八七七年四九歳。城山の戦い。「晋どん晋どんもうここらでよか」別府晋介「ごめんなったもんし」

⑬  一八八九年大赦。正三位 死後一二年経って国賊の汚名が晴れる。

⑭  一八九〇年、没後一三年。「西郷南州遺訓」、庄内藩出版。戊辰戦争で庄内藩が降伏するや、官軍の総大将西郷は、兵を一斉に引き上げた。皆殺しを覚悟した藩主は、訳を尋ねると、西郷が一存で、兵を撤収させたという。このような侍の出た薩摩藩に是非庄内の少年を留学させようと、明治後半まで、山形から鹿児島に少年たちが年三〇名程度寄宿した。彼らが、師と仰ぐ西郷の片言痩躯を集めて、後の子供たちに残しておこうとして、本の出版となった。西郷が著述した個所は一行もない。

⑮  「敬天愛人」天を敬い、人を愛する。謙虚さは敬う心。西郷の人柄そのもの。

「自孫のために美田を残さず」有名な言葉だが、余りに金銭的な利得を嫌った西郷には、残したくとも残す資産は皆無であった。終生、貧に甘んじ、贅を戒め、師を敬し、友、人を愛し慕った五〇年。

 

三.今も、旧薩摩藩、現在の鹿児島県宮崎県の小学校校歌に西郷さんに習えの歌詞が残る。