ごきげんさまです。
ひでこです。
初夏の沖縄と冷たい雨の東京の往復。
夜遅くまでの幾つもの勉強会参加。
セミナーや研修会の講師役。
度々の取材と締切り迫る原稿。
昨日の大風と雨と今日晴天の花粉。
あらあら、さすがに疲れが出ても仕方がないか、
やたらと眠たくなって夕方から就寝モード。
で、今頃、目が覚めて昨日のブログの続き
を書いている私。
いったい、なにやっているんだか^^;
さてさて、「愛」について。
いえ、正確には「愛という言葉」について。
まあ、そもそも、愛なんてものが有るのか、
愛なんぞというものは無いのか、
そんなことを考える前に、
そもそも、愛って何よ?
と慮る私でありまして。
そうだ、時々、熱烈ダンシャリアンの方が、
私やましたひでこを「愛の人」と評して下さることがあり、
びっくりすることがある。
それは、「やましたさんって意地悪な人よね」と、
言われるよりはずっと有り難いことであるけれど、
これはもうとんでもない勘違いであることは確か。
そう、この間違いは正しておかなくてはならないよね。
マザー・テレサならば、いざ知らず、
私ごときが愛の人であるはずもないのだから。
時々、自己啓発系の先生を、そのファンともいえる受講生さんが、
「愛の人」と表現する場面に遭遇することがある。
私は、その先生に尋ねてみたくなる。
受講生さんから「愛の人」と呼ばれるその気持ちを。
でもね、熱烈ファンが、自分のメンター先生を、
「愛の人」と呼びたくなる気持ちもわからないでもないなあ~
と、こんなことをつらつらと訝りながら考えていたら、
ある友人がこんなことを言う。
その場合の「愛の人」って、
きっと、「自分のことを認めてくれた人」って意味じゃないの?
そうか、それなら納得できる。
そうだ、自己肯定感に欠けていたならば、
自分がメンター先生と仰いだ存在から承認されたという想いは、
どんなにか救いになるか知れないですものね。
でも、これは危うい。
メンター先生が、受講生を少しでも邪険に扱えば、
それがたとえ教育的指導であったとしても、
メンター先生は、たちまち「愛の人」でなくなってしまうのだから。
どこまでも、受講生さんの思い込みの視点だから。
それでも、メンター先生の側が、
自分が「愛の人」と呼ばれようが、呼ばれまいが、
いっこうにかまわなければ、まったくどうでもいいことでもあるよね。
要は、師、先生というポジションにあって、
いかに、自身の自己重要感への執着を俯瞰できるか、
問題なのはそれだけ。
それでも、「愛の人」と呼ばれるのは、
「女神」と呼ばれるよりは、ずっと危険度が少ないね。
よく、スピ系の自己啓発の世界だと、
支持者さんたちから「女神」と呼ばれている先生がかなりいるもの。
そう、少なくとも、「愛の人」は「人間」に踏みとどまっている。
「神」の領域には、足を踏み入れてはいない。
ああ、講師、先生になって、
人間、やめますか?
あら、これは覚醒剤取締キャンペーンの標語だわ^^;
でもね、もしかして、講師や先生というポジションは、
この覚醒剤と同じくらいの危険性を孕んでいるのかもしれない。
どうだろう。
さて、今日のところはこの辺で。
おやすみなさい、どうぞ、素敵な夢を。
有難うございます。

