御園座の東海道四谷怪談の歌舞伎観劇で名古屋に行きました。
その際に、名古屋市内の名建築を見学して回りました。
一番時間を使ったのが、ここ、「揚輝荘」です。
松坂屋初代社長・伊藤祐民が、大正時代に別荘として「揚輝荘座敷」などを建て、
その後大正末期から昭和初期に、迎賓館の役割が加わって、
「伴華楼」など茶室のある建物が建てられ、
昭和12年には、国際交流の場として、「聴松閣」が建てられ、
30数棟の建物が点在する別荘群であったものが、
戦後は進駐軍に接収され、返還後は松坂屋の社員寮などに改築されてきた
という歴史があります。
昭和43年から48年には、敷地内にマンションが建つようになり、揚輝荘の存続が危ぶまれまし池泉回遊式庭園のある北園(「伴華楼」などがある)と
「聴松閣」や「揚輝荘座敷」がある南園が見学できるようになっています。
まずは、「聴松閣」を中心に南園をたっぷり見学しました。
ハーフティンバーの外観で山荘のようですが、中はいろいろな文化が融合しています。
中に入って、玄関から表を見ると、車寄せの虎の置物の姿が見えます。
伊藤祐民氏が中国で買ったものだそうです。
建物は地下1階、地上2階。まずは1階から。
1階は旧食堂(晩餐会も開かれた)です。今は喫茶可能な休憩所になっていますので、
私もここでホットコーヒーをいただきました。
大きな窓に暖炉、右手に「いとう」と彫り込まれた造り付け食器棚があります。
写真ではわかりづらいですが、木材は手斧(ちょうな)を使った「名栗」仕上げと手が込んでいます。
旧食堂に隣接する旧サンルーム。今は展示室になっていて、中央に、全盛期の揚輝荘の全景模型があります。半八角形の出窓がサンルームらしさを演出しています。照明のデザインもおしゃれです。
では、2階へ。
大きな階段の天井の照明など、統一されています。2階の窓の光で明るい印象。
2階の廊下ホールもハーフティンバー感満載。
写真奥の部屋が旧書斎。
船底天井、床は当時の新建材のプラスチックタイルで市松模様に。
旧応接間は暖炉があり、暖炉左に丸窓とソファーが船室のように。
わかりづらいですが、丸窓の周りはオウムが描かれた壁紙で、海外旅行感ありありです。
応接間は英国風でしたが、旧寝室(小さいほう、来客用らしい)は中国風です。
天井に鳳凰、撮影者の背面に暖炉があり、木鶏が描かれています。
旧寝室の裏側には和室があり、更衣室になっていました。
ベンガラ色の壁が特徴的。収納の建具は鏡になっています。
水屋やお手洗い(トイレ)も付いています。
地下に降りるとまた別世界でした。
地階ホールには、インドの留学生が描いたといわれる、アジャンタ石窟の写しといわれる壁画が残っています。
そして写真奥には・・・旧舞踏場。写真より実際にはかなり大きいです。
暖炉の上にはカンボジアのアンコールトムに見られる踊り子のレリーフ。
石張りの柱の下の模様は、インドのアーグラ宮殿に見られる象牙の模様。
暖炉の対面には、半円形の舞台。能なども行える小さな扉が右手にあります。
見どころはソファの上の窓の模様なのですが、わかりづらいので、大きくしますと。
窓ガラスにはヒマラヤの雪景色が彫り込まれています。
窓ガラスの背面に空間があって、天窓から光を取り込んでいます。
また、暖炉の左奥に小部屋があって、丸窓から朝日が差し込み、タイル装飾の壁面には、インド砂岩と思われる女神像があります。
さて、通常は室内の見学だけですが、
ガイドツアーに参加すると南園の庭も見られます。
まず、庭から見た聴松閣。山荘風ですね。
広い庭。下の方には枯山水風の造りになっていました。
かつては、茶室もあったそうですが、いまはありません。手水用の石灯篭状のものはありました。
そして、揚輝荘で最初に建った「揚輝荘座敷」です。
中には入れないので、外観だけの見学となります。
次は、専用道を通って、北園に行きます。
池泉回遊式庭園に建物が点在しています。
揚輝荘の最初の建物が「三賞亭」。本宅から移築された、煎茶の茶室です。
ベンガラ色の壁と丸窓が印象的です。
修学院離宮を模したと言われる廊橋の「白雲橋」。
龍の天井絵があるそうですが、調査中のため、中には入れませんでした。
名古屋の建築家・鈴木禎次(ていじ)が設計した「伴華楼(ばんがろう)」
バンガローに由来しているとか。
中には入れませんでしたが、尾張徳川家から拝領した平屋建ての下に、
(つまりは2階が和室)遊戯室と応接室を設けた迎賓館だそうです。
石積みが印象的で、木材を多用した見事な和洋折衷ですね。
だから、不思議な印象がしたのかな。
そうそう、お稲荷様もありました。赤い鳥居がたくさんあって、面白い風景でした。