二年前の今日、東日本大震災が起こった。
震度7、マグニチュード9.0の大地震。
そして40m以上もの高さに及ぶ大津波は人々の生活、文化、財産、家族、友人、恋人までも奪い去った。
この残酷なまでの自然災害に対する人々の反応は非常に様々であった。
被災者たちは、悲しみに明け暮れ
科学者たちは、叩き潰された想定を再び練り直し
各界の著名人や大金持ちは知名度や経済力を活かして義援金を集めた
そして、我々一般庶民は・・・自然の残酷さに恐れおののきながらも、悲しみに明け暮れる被災者に心から同情した
起きてしまったものは仕方がない。
失ってしまったものは取り戻せない。
今更悔やんだって、どうしようもないことだ。
けれど、2011年3月11日午後14時46分に起こった「それ」の衝撃は、あまりにも大き過ぎた
そして、あまりにも多くのものを奪い去っていった。
こんな現状を目の当たりにしたとき、人間の営みのちっぽけさに、何があっても揺らぐことがないと信じていた科学の脆さに、誰もが絶望した。
けれど、この二年間は絶えることのない悲しみだけが支配するような暗い世の中であったのだろうか?
自分はそうは思わない。
辛い中でも、苦しい中でも希望の光を胸に抱き必死に頑張ってきた人間はいる。
自分と同じ年の福島県に住んでいる中学生がそうだった。
もう卒業してしまったし、先生たちも薄々感じてると思うのでぶっちゃけて言うが、自分が生徒会長として参加した行事は、意味のない啓発活動に参加した後、ほとんど読まれもせずに廃棄される感想文を書いたりとほとんどクソに近い・・・いや、クソだったが、有意義な行事が2つだけあった。
ひとつは、和歌山市の生徒会の生徒が集まって交流を深めた宿泊研修
もうひとつは、東日本大震災の被害に遭った福島の中学生達や、台風12号の被害に伴う紀伊半島大水害の被害に遭った紀南地方(和歌山県南部)の中学生と共に防災について真剣に討論したり、津波の映像を見たり(こっちのヤツはテレビで流れてるやつと違って人が流されているところもあった)、実際に津波に流されて意識を失い、気がつけば木の幹に引っかかっていた奴と喋ったりもした。
そんな彼らは、それぞれの地域の復興を担う重要な人材として働いているだけあって
やはり皆、自分たちなんかよりも数倍大人だった。
具体的に何が大人だったのかと言われても、返答に困るが
立ち振る舞いから、話し方、表情まで、何から何まで大人だった。
それはさぞかし立派なことなのかもしれない。
しかし、こうも考えられないだろうか?
「震災が、彼らに子供で居させる時間を与えなかったのだ」と
彼らは、これまでは大人がやってきたことを「人手が足りないから」といって全部背負い込み、遊びや、部活の時間を削ってまで復興に力を尽くしてきた。
そんな彼らに一度聞いてみた
「そんなに頑張って、精神的にパンクしてしまわないの?」
彼らは答えた
「今はそんなことを言っている場合じゃないんです。まだ津波のがれきも全然片付いていないのに」
深刻そうな顔で考え込む自分を見かねてこうも言ってくれた
「でも、私たちはこうやって生きているじゃないですか。私たちがなぜ生きてこられたかっていうと、しっかりと準備をしてきたからです。津波に対して、これくらいでいいだろう。なんて思わなかったからです。でも、しっかりと備えていれば怖いものでもない。そのことを伝えるために、私たちは和歌山まで来ているんだと思います。」
30年以内には和歌山県に必ず来ると言われる東海・東南海・南海連動型地震。
この記事を読んでいるあなたは、もしもの時、どこに逃げるのかを決めていますか?
家族でどこに集合するのかを決めていますか?いざという時、自分ひとりだけ助かるために肉親を見捨てる覚悟はありますか?
震災から二年が経ったいま、改めて皆さんに考えて欲しいのは、東北で起こった大地震や大津波は他人事ではないということ。
「備えあれば患いなし」
ということわざもあるとおり、皆様の家庭でも、もう一度、防災対策を見直してみる機会を持ってみてはいかがでしょうか?
震度7、マグニチュード9.0の大地震。
そして40m以上もの高さに及ぶ大津波は人々の生活、文化、財産、家族、友人、恋人までも奪い去った。
この残酷なまでの自然災害に対する人々の反応は非常に様々であった。
被災者たちは、悲しみに明け暮れ
科学者たちは、叩き潰された想定を再び練り直し
各界の著名人や大金持ちは知名度や経済力を活かして義援金を集めた
そして、我々一般庶民は・・・自然の残酷さに恐れおののきながらも、悲しみに明け暮れる被災者に心から同情した
起きてしまったものは仕方がない。
失ってしまったものは取り戻せない。
今更悔やんだって、どうしようもないことだ。
けれど、2011年3月11日午後14時46分に起こった「それ」の衝撃は、あまりにも大き過ぎた
そして、あまりにも多くのものを奪い去っていった。
こんな現状を目の当たりにしたとき、人間の営みのちっぽけさに、何があっても揺らぐことがないと信じていた科学の脆さに、誰もが絶望した。
けれど、この二年間は絶えることのない悲しみだけが支配するような暗い世の中であったのだろうか?
自分はそうは思わない。
辛い中でも、苦しい中でも希望の光を胸に抱き必死に頑張ってきた人間はいる。
自分と同じ年の福島県に住んでいる中学生がそうだった。
もう卒業してしまったし、先生たちも薄々感じてると思うのでぶっちゃけて言うが、自分が生徒会長として参加した行事は、意味のない啓発活動に参加した後、ほとんど読まれもせずに廃棄される感想文を書いたりとほとんどクソに近い・・・いや、クソだったが、有意義な行事が2つだけあった。
ひとつは、和歌山市の生徒会の生徒が集まって交流を深めた宿泊研修
もうひとつは、東日本大震災の被害に遭った福島の中学生達や、台風12号の被害に伴う紀伊半島大水害の被害に遭った紀南地方(和歌山県南部)の中学生と共に防災について真剣に討論したり、津波の映像を見たり(こっちのヤツはテレビで流れてるやつと違って人が流されているところもあった)、実際に津波に流されて意識を失い、気がつけば木の幹に引っかかっていた奴と喋ったりもした。
そんな彼らは、それぞれの地域の復興を担う重要な人材として働いているだけあって
やはり皆、自分たちなんかよりも数倍大人だった。
具体的に何が大人だったのかと言われても、返答に困るが
立ち振る舞いから、話し方、表情まで、何から何まで大人だった。
それはさぞかし立派なことなのかもしれない。
しかし、こうも考えられないだろうか?
「震災が、彼らに子供で居させる時間を与えなかったのだ」と
彼らは、これまでは大人がやってきたことを「人手が足りないから」といって全部背負い込み、遊びや、部活の時間を削ってまで復興に力を尽くしてきた。
そんな彼らに一度聞いてみた
「そんなに頑張って、精神的にパンクしてしまわないの?」
彼らは答えた
「今はそんなことを言っている場合じゃないんです。まだ津波のがれきも全然片付いていないのに」
深刻そうな顔で考え込む自分を見かねてこうも言ってくれた
「でも、私たちはこうやって生きているじゃないですか。私たちがなぜ生きてこられたかっていうと、しっかりと準備をしてきたからです。津波に対して、これくらいでいいだろう。なんて思わなかったからです。でも、しっかりと備えていれば怖いものでもない。そのことを伝えるために、私たちは和歌山まで来ているんだと思います。」
30年以内には和歌山県に必ず来ると言われる東海・東南海・南海連動型地震。
この記事を読んでいるあなたは、もしもの時、どこに逃げるのかを決めていますか?
家族でどこに集合するのかを決めていますか?いざという時、自分ひとりだけ助かるために肉親を見捨てる覚悟はありますか?
震災から二年が経ったいま、改めて皆さんに考えて欲しいのは、東北で起こった大地震や大津波は他人事ではないということ。
「備えあれば患いなし」
ということわざもあるとおり、皆様の家庭でも、もう一度、防災対策を見直してみる機会を持ってみてはいかがでしょうか?