波瑠は仕事で横浜にいた。親善大使のようなものに選ばれ、市のイベントの開会式に出席することになったのだ。

海を眺め深呼吸する。想い出深い景色が周りを取り囲んでいる。横浜は大野と共演したドラマで連日訪れた場所だった。


去年の今頃は生活がガラリと変わり波瑠は毎日が精一杯だった。
同時に複数の仕事を任せてもらえる環境になり、それほど器用ではない自分だが期待に応えなくてはとプレッシャーがあった。

そんな時大野はいつも気遣ってくれた。電波ジャックの日、波瑠は体調を崩し声が出なくなってしまい、喋りの部分は大野が一手に引き受けてくれた。

彼にとっては一番苦手な仕事だっただろうと思う。しかも当日の朝に任されることになって準備の時間もない。

波瑠は「ごめんなさい」と声が出ない状態で何度も大野にお辞儀をした。
大野は「気にしないで」「なんとかなるよ」「波瑠ちゃんは自分の身体だけ心配して」と励ましてくれた。

ドラマの撮影の時は、大野が現場で台本を読む姿はあまり見かけなかった。出演シーンも多く膨大なセリフの量だが家で頭に入れてきているようだ。監督の指示で細かく動きが変わったりしても臨機応変に対応している。

なんてすごい人なんだろうと思った。脳の作りが自分とは違うのかな?と思ったりした。

それでも、撮影の合間合間で踊りの振り付けのような動きをしている姿を見かけた。例年より嵐のライブの回数が多く期間も長いようなことを大野は言っていた。

この人はなんでも簡単にできるわけじゃなくて、きっと陰でものすごい努力をしている人なんだろうと思った。

穏やかで優しい大野の笑顔が波瑠の瞳に刻まれ、深い尊敬の思いが波瑠の心に染み渡っていった。


キラキラひかる海を見つめながら1年前の自分を思い出す波瑠。

「尊敬はやがて憧れに変わり、いつしか愛情に変わった」

劇中の三浦の台詞が頭をよぎる。

波瑠:私…みささんなんだな…


数日後、仕事を終えた波瑠はタクシーでまっすぐ大野と待ち合わせしている店に向かった。

お互いに忙しくおおっぴらに会うこともできないふたりは、大野の行きつけのこのバーで2・3度食事した程度だ。

店のオーナーは大野と顔馴染みで波瑠とのことも話してあり、他の客には接触しないように気を遣ってくれている。

この日は波瑠が先に到着した。波瑠は何も頼まずに大野の到着を待っていた。

少しすると大野からLINEが入った。もう少し遅れるとのことだった。先に何か飲んでてとあったので、波瑠はビールを頼んだ。

しばらくすると大野が到着した。かなり急いで来たようで髪が乱れていた。

大野:ごめん!波瑠ちゃん!
波瑠:大野さん…そんなに慌てて…大丈夫ですよ。
大野:その辺で事故があったみたいで渋滞して動かなくて…タクシー途中で降りて走ってきたよ。

波瑠は嬉しかった。自分に会うために必死になってくれる大野の姿が。

波瑠は大野の乱れた髪を指で軽く直し、ハンカチで大野の額の汗を拭いた。

波瑠:大野さん、いい男が台無しですよ。

大野は恥ずかしそうに微笑んだ。

ふたりはたくさん飲んだ。そして波瑠はいろんなことを話し、大野は楽しそうに聞いてくれた。自分のことばかり話してしまい、なんだかな~とうつむいてしまう波瑠。ふと視線を感じて顔を上げると大野が優しく自分を見つめていた。

大野の表情はまさに大人の男性だった。
波瑠は慌てて視線をはずした。


お互いの気持ちを打ち明けた日。
思わず涙が溢れてしまった自分を大野は優しく抱き寄せてくれた。

波瑠は突然のことに驚き身体を固くした。そして大野の胸の温かさや腕の力に大人の男性を感じて波瑠は戸惑った。
波瑠は大野のことが好きだが、優しくて可愛らしい風貌から同性の友人に対するような安心感が半分くらいあったのだ。

波瑠の様子に気づき、大野はすぐに腕の力を緩めて波瑠から身体を離し、照れ臭そうに「ごめん」と言った。
波瑠はうつむいて首を振った。


あの一瞬の出来事を思い出すと波瑠は身体が熱くなる。
そして今は…もっと強く抱き締めてほしいと思う自分がいる。

波瑠は大野に対して、今までと違うもっと深い想いを抱き始めていた。


ドアをノックする音が聞こえた。大野が返事をするとオーナーが入ってきた。

店の入り口から少し離れた場所に写真誌の記者らしき車があるという。
ふたりは顔を見合わせた。

いつもはふたりとも警戒して多少変装したり、来る時もタクシーの道順を変えたりしているが、今日は急いでいたのもあり無防備な状態だった。


オーナーは地下にある従業員用の駐車場にタクシーを2台回してくれるという。

その地下通用口までの専用階段に案内してくれた。

薄暗く細い階段だった。
タクシーが来るまで少し待つかもしれないとオーナーは言い、くれぐれも足元にお気をつけてと気遣ってくれた。

細い階段は傾斜も少し急だった。大野が先を歩き波瑠の手を引いて少しずつ降りて行く。

今日は少し飲み過ぎてしまった波瑠は足元がおぼつかない。頭は割りとはっきりしているので、こんな大事な時にふらついてしまう自分が情けなくて仕方ない。

波瑠:大野さん。ゆっくりしか降りられなくて本当にごめんなさい。
大野:大丈夫だよ。タクシーが来るまで時間かかるって言ってたし、焦らなくていいよ。

折り返しの踊り場まであと3段というところで、波瑠は足を踏み外してしまう。

波瑠:あっ!
大野:波瑠ちゃんっ!

波瑠は腰からすべり落ちそうになった。そんな波瑠の身体を大野は片手で抱き上げて抱き締め、手すりに自分の背中をつけて全体重をかけた。

大野:危なかった…大丈夫?
波瑠:…はい…
大野:波瑠ちゃん?

波瑠は大野に抱き締められて息が止まりそうだった。

大野の身体は厚みは薄くても筋肉で引き締まっているのがわかる。
そして片手で自分の身体を抱き上げてくれる力強さに驚いてしまった。

大野:痛かった…?ごめん…
波瑠:いえ…大丈夫です。ごめんなさい…

大野も胸が苦しくなるのを感じた。抱き上げた波瑠の身体は今にも折れそうに華奢だった。そして抱き締めた時の胸の膨らみの感触が自分の身体に残っている。

大野:歩ける?
波瑠:はい…

大野は再び波瑠の手を引いて階段を降りる。

地下通用口の扉の前まで降りたふたり。

重い扉を少し開け覗くように外を見る波瑠。
いつものタクシーが1台止まっているのが目に入った。もう1台はまだのようだ。
波瑠は扉を閉めて振り向いた。

波瑠:大野さん、1台来てるみたいです。
大野:じゃあさ、波瑠ちゃん先に乗って。
波瑠:…いいんですか?
大野:うん…

波瑠は再び少し扉を開いて振り向いた。

波瑠:すみません…じゃ…行きますね…

緊張する波瑠。

大野:…

その時大野は波瑠の腕をつかみ自分に引き寄せた。

波瑠:え…?

扉は静かに閉まる。

大野は波瑠を正面から強く抱き締めた。

驚きで声の出ない波瑠。

そして大野は腕の力を少し緩めて波瑠を見つめ、顔を傾けて優しく波瑠に口づけをした。

波瑠は身体が固まったままで動けない。

大野は波瑠からすぐに唇を離し、扉を開けて波瑠の背中を優しく押した。

大野:気をつけて。振り向いたらダメだよ。

波瑠を送りだし、扉を閉める大野。
途端に身体から力が抜け壁によりかかり、そのままズルズルと尻餅をつくように座り込んだ。

地下駐車場に押し出された波瑠。頭が混乱していた。
目の前のタクシーに向かって歩き出す。振り向いたらいけないと言う大野の言葉を守りタクシーに乗り込んだ。

残った大野はしばらく放心状態だった。ふと我に返りノロノロと立ち上がる。

通用口の扉を少し開け駐車場を見ると、もう1台のタクシーが到着していた。だいぶ待ったのだろうか。運転手は車の外に出て携帯を片手に誰かを探しているような素振りを見せている。

大野は扉の外に出て、運転手に向かって片手を上げ歩き出した。


波瑠はタクシーの後部座席の窓から流れる都心の街並みを眺めていた。
大野に引き寄せられた時の腕の感触や抱き締められた時の温かさが身体に残っている。

そして…

唇に指を当てる波瑠。

少し前に自分に起きた出来事を思いだし固く目を閉じた。そして熱くなった頬を両手で押さえうつむいた。


ふたりが店を出た時間からしばらくして、大野は波瑠に電話をかけた。

波瑠:もしもし…
大野:あ…もう家着いてる?
波瑠:はい…ちょっと前に着きました。

波瑠はタクシーの運転手に遠回りをしてもらって帰ったので少し時間がかかったようだ。

大野:今日はこんなことになっちゃって…
波瑠:いえ…でも会えてよかったです。
大野:…
波瑠:…

沈黙がふたりを包む。

大野:あのさ…
波瑠:はい…
大野:さっきは…ごめん。
波瑠:あ…いえ…
大野:…

大野は後悔していた。一方的に波瑠の唇を奪うような行動をしてしまった。しかもその後突き放すように波瑠の背中を押してしまった自分。
波瑠に嫌われても仕方ないと思っていた。

波瑠:嬉しかったです…
大野:え…?
波瑠:すごく…すごく嬉しかったです。

「あぁ…」

大野はホッとして肩の力が抜けた。波瑠の言葉が嬉しかった。

波瑠:大野さん、まだ外なんですか?

電話の大野の背後に風の音を感じる波瑠。

大野:うん…でももうすぐだから。大丈夫だよ。
波瑠:気をつけて帰ってくださいね。
大野:じゃ…また連絡するね。
波瑠:はい。

おやすみ、と言って大野は電話を切り、大きく息をはいた。


店からタクシーに乗った時、記者の追跡の不安と波瑠への後悔の思いでまっすぐ家に帰る気になれず、気づくと横浜まで走ってもらえないかと運転手に伝えていた。

今、目の前に光る観覧車を見上げる大野。

大野:もうすぐ灯りが消える時間かな…

次はこの場所に波瑠と一緒に来たいと大野は思った。

そして夜景の見えるこの観覧車で、歴代1位のキスを波瑠にプレゼントとしたいと大野は願うのだった。





終わり