「跡」
テーブルの上に
手の跡が残っている
拭いても
拭いても
消えない
水で濡らすと
かえってはっきりする
光の当たり方で
指の本数が変わる
五本のときと
六本のときがある
乾くのを待つと
また元に戻る
触れていないところが
先に冷える
別の場所を拭くと
そこにも現れる
順番に拭いていくと
どこから始まったのか分からなくなる
最初に触れた場所が
もう思い出せない
全部拭き終えたはずなのに
真ん中に
もう一つ
残っている
手を重ねると
少しだけ
合わない
離すと
すぐにずれる
もう一度拭く
何もない
光だけが
少し歪んでいる
八巻 孝之 Takayuki Yamaki
宮城県角田市出身・医師/医学博士
作品への想い
本作は、日常的な「テーブルを拭く」という行為から始まり、手の跡の異常、空間の違和感、記憶の不確かさへと恐怖が移行していく作品である。
拭いても消えず、水に濡らすとかえって鮮明になる手の跡。光の加減によって変わる指の本数。繰り返し拭くうちに増殖する痕跡。こうした微細な異常を積み重ねることで、目に見えるもの、手で触れられるものが、必ずしも確かな存在ではないという不安を生み出そうとした。
物語が進むにつれ、異常はテーブルの表面だけでなく語り手の記憶や認識にも及んでいく。最初に触れた場所を思い出せなくなることで、消そうとしていたものとそれを消そうとする自分自身との境界が曖昧になっていく。
最後に手の跡は消える。しかし、光にはわずかな歪みが残る。怪異が消滅したのか、それとも見えないものへと変化したのか、答えは示さない。
描こうとしたのは、正体の分からない何かに襲われる恐怖ではなく、自分が確かだと信じていた現実がいつの間にか別のものに置き換わっているかもしれないという恐怖である。
短い行が連続することで、一定の緊張感が生まれる。そのリズムが終始ほぼ均一なため、恐怖の質が変化する場面でも読み手の呼吸が大きく変わることはない。説明や劇的な展開を抑え、短い言葉と反復、余白によって、読み終えたあとも日常の風景に小さな疑いが残り続ける作品を目指した。
ぜひ、会場へ足を運んでほしい。
文芸祭 2026.10.24(日)
会場 東京エレクトロンホール宮城(入場無料)
入選作品集「宮城県文芸年鑑」収録
