ノミニー! 日本関連3作品の快挙!

 

 

毎年の米国アカデミー賞を見てると、「ノミネート」と言ってるのが

私にはノミニー!と聞こえるので、毎年この時期が来ると、やたらと「ノミニー!WEAH!」と

アカデミー賞のプレゼンターの真似をして遊んでおりますが、

ノミネート!やりました、日本関連3作品!

 

我らが日本映画の伝家の宝刀ともいえるゴジラ、2023年東宝製作の「ゴジラマイナスワン」が視覚効果賞にノミネート。

外国映画賞のノミニーではないのは「全米公開した作品だから」なんだそうです。

 

それから、日本の人間国宝に認定しましょう!といいたくなるアニメーション作家、我らの宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」が、長編アニメーション映画部門でノミネート。

 

それに、ヴィム・ヴェンダース監督で、日本が舞台で役所広司さんが主役を務めた「PERFECT DAYS」が外国語映画賞にノミネートされたそうです。

ヴィム・ヴェンダース監督といえば、「パリ・テキサス」「ベルリン天使の詩」等々、思索的な作品の多い監督さんですね。

ああ、一人で観たい映画かも。

 

+いかん、思い出しただけで胸が切なくなる。

 

 

 

 

  伝家の宝刀「ゴジラ」、本家本元の矜持を見せた! VFXで世界に追いついた!

 

 

 

山崎貴監督の長年の努力が実りましたね!

日本の映画の宝である「ゴジラ」のノミネート!

21世紀、世界で日本と言えば、スシ、フジヤマ、ゲイシャにゴジラ! ってな感じでしょうか。

 

今回のゴジラマイナスワンは、終戦直後の復興の槌音響く日本に、なんということなのか破壊怪獣のゴジラが現れて、国内でも復興が早かった銀座の街を壊しまくるという、いうなれば、ゴジラの原点である東宝のお膝元「銀座」をゴジラがぶっこわすという、つまり、これはもはや儀式、「呪詛」です。

 

 

もともとゴジラは、ビキニ環礁で被爆した怪獣が巨大化して生まれたという設定で1950年代に東宝が世に送り出した怪獣で、

世界で唯一の被爆国の日本人の想像の産物、とんでもない「怪獣」なんですよね。

原爆という禁じ手を軍事で実用に踏み切って「パンドラの箱」を開けてしまった米国が、敗戦国の日本の映画会社が製作した「ゴジラ」を見て、ぶったまげたんじゃないでしょうか。

 

ただのB級映画にとどまらない、大変な社会風刺でもあったということになります。

 

 

地震国日本は、「ある日、突然に、災害がやってきて街が壊滅する」という爆戦とした不安をもっている人が多い国です。

 

「地面の下に大鯰が住んでいて地震を起こす」とか、震災は正体不明の大きな生き物が起こしてるんだという伝説、神話のような言い伝えもあります。なので、「日本の近くにゴジラがいて、いつだか分からないけど、ゴジラが来る」という考え方は、地震も戦争も災害などに対して感じる心のモヤモヤをぶつける対象というか、ゴジラという架空の存在を作り上げることで、「いつか破壊されてしまう街を自分が見てしまうことの恐怖」が常に心にある日本人だから思いつく怪獣で、ゴジラは「ゴリラ+クジラ」の造語だとか、アメリカ映画になると「GOD+ゴリラ」の造語に進化していて、「神として畏怖される存在」等と言われていたりもしますが、ゴジラは天災の神というか、戦後日本が生んだ「神話の中の神獣」なんですね。

 

 

アメリカのキングコングに対抗するものを日本の東宝が作りたくて、「ゴジラ」が考案されたんだという話を聞いたことありますけど、「巨大ゴリラ(大変な腕力)が暴れて、街をこわしまくる。ただし女性にはやさしい」というのが、米国の「神話の中の神獣」なのだとしたら、米国民は概して「ゴリラのように狂暴」な存在に強い恐怖感を抱いているということになるのかな。

日本映画のゴジラを見てると、ゴジラの出現は「地震」や「震災」のような天災の発生に近い描かれ方をしていて、2011年の東日本大震災や新潟地震、熊本地震、今年正月の能登半島地震と、大災害が発生する地震国日本に生きる日本人にとって、「ゴジラ」は地震災害が発生した時に感じる不条理で大きな悲しみを受け止めて、怒りや悲しみを昇華させるアイコンとして「ゴジラ」が生まれたような気がしてなりません。

 
 

 

 

 

 

  PERFECT DAYSに期待に期待しつつZENに関心の高い西洋人の憧れか

 

 

それから、役所広司さん主演のパーフェクトデイズは、トイレ清掃員のお話しだそうです。

宣伝用の予告編を見ましたが、清掃員の男が禅宗のお坊さんのように質素でシンプルな生活を送っているというお話のようで、

お掃除、お寺さんでは修行としてやりますよね。

 

これ、西洋人のファンタジーじゃないか?と思いました。

 

清掃員のお仕事、私も「浄める修行系のお仕事、カッコいい~!」と思ってやったことがあります。

禅や瞑想が今ブームになっていますけれども、やっている人たちはライトな修行をしたい皆さんなので、お掃除までが修行だと思ってないし、「掃除夫がいて当たり前」でトイレ、普通に汚すんですよね。

 

お寺さんに入門すればお掃除も修行になりますし、自分のエゴを見つめなおすということをするので、掃除夫を差別的に見たりしないのですが、悲しいかな、仏教の発祥地・インドにはカースト制度というのがあって、掃除夫をするような階級の人は「前世のカルマがあるせいで身分が低い」ということにされているので、露骨に差別があったりします。

 

意識が高い系の人たちなので「職業に貴賤なく人とは付き合うべき」ということは頭ではわかっているのですが、日本の禅が世界でブームになっていたとしても、仏教が普及しているアジアでも、日本国内でも、掃除夫を無意識に下げずんでいる人たちというのは存在します。

 

仏教のお坊さんなどは、乞食(こつじき)修行をしたり、エゴを徹底的に排除していきますが、一般人はそうでもなくて、お掃除をする人を無意識に差別してる人は多いと思います。

 

 

だから、ヴィム・ヴェンダース監督の考える、禅宗のお坊さんのような心持ちで生きてる清掃員というのは、「いたらいいなあ」という聖人の姿かなあと思います。

 

 

「浄める」仕事を聖職として誇りをもって続けている人たちは実在しますが、実際に彼らの心は汚物を見るような扱いをうけて、

感謝もされずにボコボコに傷つけられていて…という方が多いんじゃないかなあと思ったりします。

 

先月だったかな、神社兼公園のトイレ掃除の清掃員の人が公衆トイレを掃除をしてるのをみましたが、もうヒステリックに水をばしゃばちゃトイレの便器にぶちまけて、わざとだと思うんだけど、洗浄するために便器にかけた水が、公園のそこら中の地面に水しぶきをあげて飛び散るように、わざと水をバシャバシャ!派手に水をかけていて、トイレ掃除で使用してる水が、公園のそこいら中に水滴がおもっきり遠くまで飛ぶように、うっぷん晴らししてるところを見てしまいました。
 
怒りの清掃員発見!
あれは世間に復讐してましたね。
 
近くには子供の滑り台やお砂場も、ご近所のお年寄りが日なたぼっこをしてるベンチもあるのですが、おかまいなしに便器に水をぶちまけて、水しぶきを2m、3mと、わざと公園いっぱいに広がるように、水をぶっかけて、(ああ、公衆トイレの隣のベンチ、完完璧にトイレ掃除の水をかぶって濡れてるわ)…という、絶句ものでした。
 
 
これだけ清掃員の方が怒るのって理由があったと思うんですよね。
 
それは「汚物のような扱いをうけた」、異常な人格攻撃を受けたり、不当なマウントしてくる人がいたから…だと思うんですよね。
 
10年くらいまえに、人気ドラマで「仁」という、平成の医者が江戸時代にワープする話がありましたけれども、当時「医者」は尊敬されながらも、穢れを扱う仕事であるため「えた」という身分だったそうです。「穢れ」を扱う仕事なのは事実だから、住宅密集地ではなく、すこし離れた場所に居を構えるとか、そういうことはやっていたようです(時代小説を読むと、江戸時代の医者はそういう住まい方をしてます)。
 
でも、お掃除って、「衛生」の基本中の基本なんですよね。

 

琉球王国の神職は女性が務めるのですが、神職の人の主なお仕事って「お清め」、一にも二にも掃除なんです。「湧き水」、「泉」、「井戸」には神様がいるので、拝所があって、1にも2にもお掃除、まずそこを浄める。

 

浄水の管理です。「キレイな水」を確保する、綺麗な水がある場所の衛生管理が肝なんです。
 
私は霊力があるから、お線香をあげてお祈りすれば、湧き水に浮かんだ、葉が取り除かれるかといったら取り除かれない。
葉っぱを手でとって、お掃除する。これに限ります!
ということなんです。
 

 

どんなに立派そうに見える人でも、社長さんや大学教授や著名人といった世間的に人格者と呼ばれる人達はお手伝いさんや家族がトイレを掃除しているので、本人たちはトイレの使い方がキレイかと言ったら、ぶっちゃけ「汚い」……ことがおおい。トイレを意識してキレイに使ってるかといったら、意外とそうではない。

 

 

セレブの中でも皇族は違うそうです。皇族が使用したトイレは使用後もとてもキレイなんだそうです。

雲の上の人と言われるだけの努力をしてるようですよ。匂わせもしない。

(トイレ使用したんですか?)というくらい使用後がキレイなんだそうです。

香水までまかれてるっていう噂もあります。

 

こういうことを知ると、「トイレを浄める」のってマナーofマナーで、トイレ掃除の人が汚れてると思わないくらいキレイにトイレを使うというのは、最上級のマナーなんだと思うんです。

 

共産党の運動家だった霜多せいじさんは、「労働者の味方だという自負があるなら、理屈をこねる前に、字は丁寧に書いて、活字を拾う職工さんが分かりやすく字を書け」とか、労働者の立場を考えながら、我が身を振り返って我が身の行動を見直せ!といったことを書いていらっしゃいました。それに気が付けている「知的な人物」と言われる人達がどれだけいるか、というと、1/3もいないんじゃないかと思います。

 
育ちがいいなという人は幼いころから家にお手伝いさんがいて、お手伝いさんにいつも「ありがとう」とちゃんと言える、働く人に感謝の気持ちをちゃんと持ってる人がいます。だけど、自分たちのために働いてくれる人をリスペクト出来ない人というのは一定数いて、チームワークで仕事ができないんですね。
他人は利用する存在で、(感謝?感謝なんかなんかしねーよ、カス!)みたいなこと平気でいう人は残念だけど一定数いて、掃除夫以外の知的労働の職場には結構いて(花形職業というか、ポジションが奪い合いになるような職業にはけっこういる!)、そういう人達がいるから、ヴィム・ヴェンダース監督が、精神が磨かれた美しき掃除夫の映画で作りたくなるも、わかる気がします。
 
ビートたけしさんが、発作的に一人で公園にいって、公衆トイレの掃除してるんだそうです。自分を戒めるために。
トイレのお掃除をしながら自分の驕りを掃除して、エゴを洗い流がす。
 

 

  「人間しょせん糞袋よ」。トイレ掃除で取り除かれるのは実は己のエゴだったりする

 

 
心の領域をあつかうお仕事をしてる人は、「エゴ」の退治の重要性に気が付く瞬間があって、私も人様の話を聞いて代弁者として文字に書き起こす仕事をしてますが、文章を作る場面で、私のエゴや、私が話を聞いた相手のエゴも、発言、考えの一つ一つがエゴではないか、再確認の作業がずっと続きます。
 
なので、私は文章をまとめてると、私も発作的にお掃除をしたくなってしまうんです。
それで、内緒でお掃除に行ってたりするんですけど、お掃除してると、「掃除夫」として見下される言動をとられることがやっぱりあって、その時に、いろいろ気が付くことが今もあります。
 
エゴって、自覚するのも大変です。
私も日常的にはエゴの塊ですが、「世に問う!」文章を書くときは、どんどんエゴを削っていって、修行僧のような状態まで自分を追い込んで、「世に問う!」文章を(代弁者として)まとめるので、その時はエゴをへっぱがして、心を研ぎ澄ましておかないと、「これだ!」という文章は書けないんです。
 
 
お掃除って「お清め」だから、万国共通で「聖(ひじり)」の仕事なんですね。