矢倉とは
以前から書きたいと思っていた、矢倉戦法の歴史に手を付けたいと思い記事を書き始めました。私も50代に入って、出来るうちに、やりたい事をしておきたいと思ったり、勝又教授の相掛かりの記事に刺激を受けたり、してます。
将棋で「矢倉」と言う言葉を使う場合、幾つかの意味があると思われます。元々は玉を囲った駒組みを、城の櫓(矢倉)に見立てて「矢倉囲い」と呼ぶようになった所から、始まるはずです。
矢倉囲いの出現
実は矢倉囲いは最古の棋譜に既に現れてると言うと驚かれるでしょうか?先手初代大橋宗桂vs後手本因坊算砂の1607年(慶長12年)に行われた対局で、後手で四間飛車に振った本因坊算砂が使用しています。
厳密には、「流れ矢倉」と呼ばれる囲いで、いわゆる「矢倉囲い」=「金矢倉」では無いものの、一応は矢倉囲いです。(何気に、先手も「天守閣美濃」のように、角頭に玉を囲っています。しかも現代でよく見られる「ツノ銀型雁木囲い」になっていて、「天守閣ツノ銀雁木」とでも言うような囲いです。)
では、金矢倉の初出はどうでしょう?
同じく大橋宗桂と本因坊算砂の1618年の対局で残存する棋譜では、両者の最後の対局のようです。
後手大橋宗桂の四間飛車に先手の算砂が飛車で3筋の歩交換をしたのに対応して、後手も3筋に飛車を移動して、玉を金矢倉に囲いました。
(2図)
その数手後に先手も金矢倉を完成します。
(3図)
ただ、この局面は、戦型としては、後手振り飛車(四間飛車)の対抗形で、戦型としての矢倉(相矢倉、急戦矢倉)ではありません。
矢倉戦法の模索
いよいよ矢倉戦法、戦型としての矢倉へ進んで行きます。
それでは、戦型としての矢倉、矢倉戦法はどんな形、指し方でしょうか?
上でも書いたように、矢倉囲いに組んだからと言って、 上述の大橋宗桂vs本因坊算砂戦は両方とも、普通は矢倉戦とは認識しないと思います。
では、相居飛車で矢倉囲いに組めば良いのでしょうか?
例えば次の図は矢倉戦法でしょうか?
(4図)
対局です。先手は金矢倉、後手は菊水矢倉です。
先手の野月先生の名前と互いに飛車先の歩を手持ちにしていて、3六の銀で分かるでしょうか?この将棋は、相掛かりの先手引き飛車棒銀から進行した局面です。
では次の局面はどうでしょう?
(5図)
こちらは1993年の谷川先生と羽生先生の対局です。後手は金矢倉、先手は矢倉囲いから金が1枚離れています(個人的には半矢倉とでも呼びたいところです)。
こちらもお互い角を手持ちにして、5六銀・5四銀と腰掛け銀の形になっています。そうです。これは角換わり腰掛け銀です。
通常、(4図)や(5図)は矢倉(戦法)とは認識されないと思います。
それでは、矢倉戦法とは、どんな戦型でしょうか?
私見を述べるなら「先手・後手の一方もしくは両方が、角道を閉じて、居飛車で矢倉囲いを目指す戦型で、両者とも駒組みを優先すれば相矢倉、相手の隙を見て攻め掛かろうとするのが急戦矢倉」と思っていたのですが、言葉にして書き出すと問題点に気がつきました。
まず、第一に「いつも矢倉に囲う事が出来る訳ではない」と言う事です。
例えば、後手でウソ矢倉目指した場合に2筋で飛車先の歩と角を交換され、銀冠や菊水矢倉になる戦型で納得しやすいと思います。具体的には、△4二銀(又は△3二銀)の前に▲2五歩△3三角の交換を入れられた場合です。よくわから無い人は青野照市先生の「相居飛車の定跡」を参照されると良いと思います。
▲2五歩△3三角の交換が入った形で矢倉囲いを目指す事も、形が決まってしまう欠点は有るものの可能で、田中寅彦先生の「無理矢理矢倉」が有名です。
実は先に結論の一部を出してしまうと、矢倉戦法の初期の形は、「後手でウソ矢倉又は無理矢理矢倉を目指す形」になっています。
個人的な見解では、ウソ矢倉、銀冠、菊水矢倉、無理矢理矢倉を全部含めて矢倉戦法の変化と考えています。
第二に、「目指すのは矢倉囲いである必然性は無い」と言う事です。実際によく見られる形だと、カニ囲いや左美濃、雁木囲い、場合によっては舟囲いや中原囲いも出現しています。
そもそも、将棋の歴史では、「初めから矢倉囲いが優秀と分かっていて矢倉囲いを目指した」なんて事はあり得ず、試行錯誤の上で矢倉囲いを目指すようになったはずです。
最後に、矢倉囲いだけで無く、居飛車にこだわる必要も無いはずです。
その視点で見ると、矢倉囲いを目指して▲6八銀(又は▲7八銀)もしくは△4二銀(又は△3二銀)と上がった形は、中飛車(又は四間飛車)を目指す形と共通しています。
いろいろ考えているうちに、思いついた事が有るのですが、長くなりそうなので、次の記事にしたいと思います。
面白いなと、思ってくれたらよろしくお願いします。
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